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敏洋’s 昭和の恋物語り

水たまりの中の青空 〜第一部〜 (百二) 

2021年04月27日 外部ブログ記事
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 それは大通りから一本中に入った路地裏にあった。
古い商家をそのまま使っているようで、ガラス戸を開けるとすぐに土間になっている。
そこに古びたソファが置いてあり、テーブルを挟んで対面式になっていた。
くたびれたジャケットを着込んだ中年の男が、書面を前に考え込む仕種をしていた。
説明している若い男は入ってきた女将に対し、すぐさま立ち上がり直立不動の姿勢を取った。
「名水館の女将さんです」。
大声で告げると、どうぞと奥に進むように手を動かした。
渋面をしていた男も、名水館の名前を聞いた途端に立ち上がって、ご無沙汰していますと頭を下げた。

 パーテーションの奥からは、電話対応をしているらしい声が聞こえる。
元々は畳だったはずだが、現在は板の間となっているようだ。
床のギシギシときしむ音と、くぐもった靴音が聞こえてきた。
「まあ女将さん。どうされました? おいでになるのは明日の筈では」と、いかにも底意地の悪そうな目のつり上がった狐顔の女が声をかけてきた。
軽く会釈をする女将に、その女の後ろから「これは、これは」と、恰幅の良い白髪交じりの男が現れた。

「どうされました、急なご用ですかな」
「ええ、そうなんです。とっても良い話を持ってきましたわ。
こちらは」と、簡単に武蔵の紹介をした後に「今ここで契約をしませんと、よその土地に取られてしまいますから」と畳みかけた。
チラリと武蔵を一瞥した男は「女将の話なら、いやも応もありませんな。しっかりした身元の方でしょうから」と、
やっと武蔵に対して、「熱海温泉旅館協同組合 理事長 神原信之介」と印刷された名刺を手渡した。

 商談は、女将の尽力の甲斐があってスムーズに進んだ。
武蔵の出る幕はまったくなく、全てが女将主導で進んだ。
富士商会を切り盛りする女主人然とした交渉ぶりは板に付いたもので、
“五平の言うとおり、この女将は男を食らってしまうな
。亭主も大変だろう、これでは”と舌を巻いた。

 複数の仲介業者を通して購入していた組合としては、廉価に購入できるというメリットを享受できた。
富士商会としても新しい販路を確保でき、また販売方法を築き上げることができた。
“各地の商工会やら組合やら、これからは利用していかなくちゃな。
熱海くんだりまで来た甲斐があったというもんだ”。

 その夜、女将と差し向かいの食事となったが、武蔵の意識の中に男女関係はなくなっていた。
まるで銀座のあの梅子が乗り移ったかのように思えていた。
ただ梅子とは違い、色気は感じている。震い付きたくなる女性ではあった。
しかし武蔵の気持ちの中で、光子として意識することがなかった。
あくまで旅館の女将であり、富士商会熱海支店の支店長だった。

「まあ、とんだことになりましたわ」。
「でもその方がお宜しいかも」。
「わたくし、自分でも女郎蜘蛛の生まれ変わりではないか、と思います」。
杯をやり取りしながら続いた。
 女将の気持ちも武蔵同様に揺れ動いたと告白した。
電話を受けた時点では、確かに男女の関係を願ったという。

しかし組合に出向くまでの二時間足らずのやり取りで、武蔵を食らってはならぬと決めたというのだ。
過去において、学者との道ならぬ恋に燃えたことがあるという。
妻帯者であることを百も承知で、互いの土地へと出かけて逢瀬を重ねた。
いっそこのまま駆け落ちでもと考えたりもしたというのだが、名水館という老舗旅館を捨てることができなかった。
自分が去れば早晩旅館は潰れてしまう。
潰れぬまでもどこかの大資本の傘下に入ってしまう、そして仲居や板前たちが離ればなれになってしまうと思い至ったというのだ。

「人のこころを失ってしまったわたくしでございます。
まさに、武蔵さまが仰った地獄を見ました」と結んだ折には、女将としての顔に戻っていた。

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