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敏洋’s 昭和の恋物語り

ポエム・ポエム・ポエム =番外編= 〜卒業式〜 

2021年04月02日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



寒い夜が終わり、
輝く真っ白な銀世界。
昇り来る太陽でさえ
恥じらいを感じるほどの銀世界。

重い雪を押しのけて、
春の訪れを知らせる
雪割草一輪。

今朝の天気の、
なんと晴れ晴れとしていることか。
昨日までの、激しいザーザー降りの雨。

女ごころ……
ホント、
難しいもんです。

“あの娘は、
まだ子どもなのサ”

そう言ってしまえば、
みもふたもない。

卒業式。
そうだね、
もうすぐだね。
そして、
僕たちの卒業式。

果たして、ピーターパンは大人になったのだろうか?


(背景と解説)

タイミングを逃してしまいました。一ヶ月前に載せるべきでした。
卒業式……。もちろんわたしにもあります、ありました。
小学校では、式の後に教室に戻り、恩師と生徒だけの茶話会があった気がします。
お茶と少しばかりのクッキー類でもって、小学校生活を振り返ったような……。
ただわたしは、わたしには僅か半年の間でしたけれども。
六年生の夏休みに九州から岐阜市やってきていたので。
でも、楽しく過ごせた気がします。

中学校の式、まるで記憶にありません。
55人ほどのクラスメートで、然も16か17クラスあるようなマンモス校でした。
体育館での式だったと思うのですが、全員が入れたかどうか……。
単純に計算しても、55x16(17)=900人超の生徒数ですからねえ。
全体数だと3,000人とか言われましたが、実際には2,500人ほどだったと思いますよ。
我々の世代が一番多かったはずですから。何にせよ、覚えていません。

問題は、高校です。定時制でしたので4年間通いました。
本来ならば一度なのですが、2度式に出ました。
3年と4年です。以前お話ししましたが、3年生の折に生徒会長を、生意気にも前・後期の1年間やりました。
そのおかげで、在校生代表として3年の折に答辞を読ませてもらいました。
今でもその一説を覚えています。
確か明治元年から100年目だったと記憶していますが、その節目であることを強調してみたり、卒業生の涙を誘った「寂しいです。学校を去らないでください、卒業しないでください」なんてくさい台詞を臆面もなく発したのですよ。
最前列におられた女子生徒さんたちの嗚咽が聞こえました。
わたしもジンときてもらい泣きをした記憶があります。
なぜこの話をするかと言えば、これがわたしにとっても卒業式のようなものだったからに他なりません。
というのも、当の4年生になっての本番卒業式には出ませんでしたから。
寝坊をしちゃって、お昼過ぎに友人に叩き起こされたんです。
ほんと、今では笑い話です。

そうだ! 予餞会というものがありまして、これは卒業生を在校生がおてもなしするという会なのです。
体育館に卒業生をお迎えして、1年生2年生3年生、そして生徒会役員の4グループがそれぞれに何らかの心づくしをやるわけです。
まあ大体が、歌に演劇そして軽音楽系だったと記憶しているのですが。
それぞれ学年ごとにクラス代表で少人数を選びましたが、わたしは3年生として演劇に携わりました。
罪人を牧師が諭して真人間にするといった、あのビクトル・ユーゴーの[レ・ミゼラブル]が素材ですよ。
その牧師役をやらされました。
生徒会長という立場がそうさせたのでしょう。善人で通っていましたからねえ。
芝居の最後で、こうしゃべったんですよ。
台本にはなかったのですが、卒業生に向かって「な・タナエルよ。君に情熱を教えよう。快楽の日々を送るのではなく、苦痛の日々を送るのだ!」
これって、アンドレ・ジイドの[地の糧]という作品内の一文、らしいのです。
「らしい」というのは、わたしはその作品を読んでいなくて、彼の石原慎太郎さんが語られたことなのです。
誰かとの対談の一節だったのか、講演を聴いたおりのことだったのか、それははっきりとはしませんが。
岐阜市に講演のためにおい出になった折り、夜だったので学校をサボって聴きに行きました。
凄い盛況で、岐阜市民会館大ホールでしたが立ち見となるほどでした。
わたしなど、立ち見も立ち見、ドアを開放して廊下で聴いたと記憶しています。
もう一人同じクラスの知人と二人で行ったのですが、その折に
「軍神・明石中佐を知っていますか? 日露戦争において日本を勝利に導いた軍人です」
と聴かされて、日本の歴史教育問題を滔滔と語られたことを覚えています。

あれ? その折以外の予餞会って、まるで記憶にないです。
どうだったんだ? 開催されていたのか? わたし自身はおもてなしを受けた覚えがまるでないけれども。
やっぱり、3年生時の卒業式があまりにセンセーショナル過ぎて。
夜間の高校は○○のたまり場などと、色々と揶揄されていたものです。
ただ単に経済的に苦しい家庭に育った若者が、少しの向学心を持って通い続けた高校。
昼間を社会で働き午後5時半頃に登校し、9時前に終業。
それから1時間程度の部活動に興じる者もいたりの、ごく普通の高校生活を送りました。
途中、諸般の事情で去る者も出ましたが、七割程度の学生たちが巣立ったはずです。
「戦友だよね、わたしたち」なんて言う者もいます。
ああ、語り過ぎました。当時のことが鮮明に思い出されて、ついつい長話をしてしまいました。
血気盛んな若者だった自分をこんなにも懐かしむとは、やはり終末が近いのでしょうか。
「100歳超え、いや120歳まで生きるぞ!」
などと広言していますが(放言と言い直した方がいいかな?)、最近体力低下に悩まされているのですよ。
折角に3代目ローンレンジャー号が来たというのに、です。
まあ、来年までお預けでしょうがね。 

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