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敏洋’s 昭和の恋物語り

水たまりの中の青空 〜第一部〜 (二十) 

2020年10月15日 外部ブログ記事
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 汽車内での正三の献身ぶりは、涙ぐましいものだった。
黒い煙りが入らない席はどこだと走り回ってみたり、朝食を摂っていないだろうからと駅に着いた折に駅弁を買いに走り、すんでのところで間に合う始末だった。
「ごくろうさま」
 そのひと言で、小夜子は済ませてしまう。
“もう少し感謝のことばが…”と思ってはみても、おくびにも出さない――出せない正三だった。
無論のこと小夜子とて、感謝の気持ちがないわけではない。
“ありがとう”と、心の中では呟いている。
しかし小夜子が小夜子たる為には、高飛車でなければならぬと思っている。

 小夜子の生い立ちが、そうさせている。
茂作の娘であり小夜子の母である澄江のことが、小夜子には重くのしかかっている。
小夜子の記憶の中に、母親としての澄江はいない。
澄江の乳を飲んだ記憶がなく、その胸に抱かれた記憶もない。
薄暗い部屋で床に伏せっている澄江が居るだけだ。

 澄江の生い立ちは、過酷なものだった。
母親のミツは澄江を産み落としてすぐに、産後の肥立ちが悪く他界してしまった。
口さがない者たちの噂では、産後に養生させることなく働かせたせいだとなっている。
 茂作がそうさせたのか、ミツの意思でかは定かでないが、確かに三日と経たずに床を上げてしまった。
本家から茂蔵の嫁であり茂作の義姉にあたる初江が、お手伝いを申し出たのだが、断ってしまったが故のことだ。
誰の意思で断ったのか、それが茂作なのかミツだったのか、誰にも分からなかった。
産後の無理がたたり、半年も経たぬうちミツは他界した。
 以後、隣り近所の女衆に面倒をかけることになった。

 澄江は物心がついたころから畑と家との往復だけの毎日を送った。
茂作と共に自家の田畑を耕し、本家の田畑にも手伝いに出向いた。
夜は夜とて、わらを使っての草履作りに精を出す。
村一番の働き者だと評判だった。
そんな澄江が十五歳になった頃から、茂作の元にいろいろの伝手から縁談の話が来ていた。
しかし中々茂作は首をたてに振らなかった。
本家の茂蔵からの話ですら、聞こうとはしなかった。
“澄江は、百姓なんぞにやるもんか”

 しかしそんな思いとは裏腹に、澄江には畑仕事を強要していた。
茂作の目の届く場所といえば、畑しかないのだ。
「澄江、もう少し辛抱してくれ。わしがきっと、三国一のお婿さんを見つけてやるでの」
「三国一でなくてもいいよ。父ちゃんみたいな人、連れてきて」
 そんな会話が、十九の夏まで続いた。

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