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敏洋’s 昭和の恋物語り

ツバメのたび どうわ集 第七章 この世の花 (最終話) 

2020年04月26日 外部ブログ記事
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 わたしのこのはねのおもさは、じんじょうなことではありません。
 これまでにもたびたび、はねのおもくなることはありました。
でも、これほどまでにしんしんともにつかれたことは、おもいやまいにかかったときぐらいのものです。
わたしは、みのおもたさ・だるさ・さむさ、そしてからだのつかれからくるこうどうのきびんさをうしない、このうえをどうすることもできません。
どうやらせまりくるそのときを、かくごしなければならないようです。
かみさまがおきめになられたそのひがちかづいていることを。

わたしはなかまとともにしにたい、そのいっしんでもって、はるかかなたのちへいせんに目をやり、くもにかすんだやまやまのつらなりをみつめました。
なかまは、やはりみえません。

 そらには、ばいえんがときおりただよってきます。
しかしそれさえも、いまのわたしにはいしきがいのことです。
それほどまでに、からだがつかれきっています。
ちじょうでは、つみぶかきものたちどうしのみにくいあらそいがつづいています。

 そんななかで、仔牛さん、せんそうぎせいしゃのひと、ぼうしさん、そしてこうえんのあまいかぜにさそわれたわかいふたり。
そうそう、もうひとくみのわかいふたり、いっしょうけんめいにはたらくしょっこうさんもいました。
わたしは、そのひとたちとおはなしができたこと、そのようすをみていられたことを、よろこびとしています。
もうわたしのいのちのろうそくは、きえようとしています。
でもわたしは、もっととびたい、なかまにあいたい……。

 わたしは、なかまとはぐれてしまった。
かなしそうな目をした仔牛さんにかかわったことで、なかまはいなくなりました。
あれほどに、ははおやにいいきかされていたのに。
ちじょうとのつながりをもってはだめだ、さとされていたのに。
わたしは、なかまをうらぎってしまった、ははおやからのあいをすててしまった。

「ちがうんです、おかあさん。ちょっとよりみちをしただけなんです。
ちょっとこうきしんがつよすぎたのです。
わたしは、なかまがすきです、おかあさんがだいすきです。
わかってほしいのです、おかあさんに。
はなしたいのです、みんなに」

 いや、わたしはツバメなのだろうか。
 こんなにもなかまとことなることをかんがえ、そしてこうどうするというのは。
 ちがうのか、ほんとうは。
 わたしのおもいこみなのか?
 わたしは、なにもの?

 わたしのふあんは、なかまにあいたいというもくてきをわすれさせ、ほうしんじょうたいでただよっているようだ。
 わたしのからだは、すこしずつ地上へとおりていく、いやおちていく。
しずかに、ゆっくりと、わたしのきづかぬまに。
そのときわたしのみみに、しわがれごえなのに、はるのひざしのようなあたたかいこえがきこえてきました。

 むかしむかしあるところに、ひとりのごうよくなおとこがいてのお。
ひとつやまのむこうにいるという、ひとつ目のにんげんをつかまえて、みせものごやにだしたら大がねもちになれるじゃろうとかんがえよった。
そしてひとりでのお、けわしいやまをこえけわしいたにをとおりぬけて、ひとつ目にんげんのくにについたとさ。

 あさはやくでかけたんじゃが、もうすっかりひがくれてしもうて、だーれもおらんかった。
おつきさまもあまりのさむさに、くものなかにおかくれになっとったのかもしれん。
さむいよるでのお、ブルブルふるえたと。
どこでさむさをしのぐかとかんがえとったときにのお、いっけんだけあかりのついたいえをみつけたんじゃ。

 それでそのごうよくなおとこは、かぼそくよわよわしいこえでそのいえのとをたたいたんじゃ。
「おねがいです、おながペコペコでしにそうです。どうぞいちまいのパンでもおめぐみください」
 そしてそのとぐちがひらき、ちいさなかわいらしいおとこのこがじぶんのてのひらよりも大きいぱんをさしだしたんじゃ。

 ところがそのごうよくなおとこはそのパンをとるようにみせかけて、そのおとこのこをかかえたままいちもくさんにかけだしよった。
しかしむらのはずれまできたところで、大ぜいのひとつ目にんげんにつかまってしもうた。
ぼうきれでポカリとなぐられよってのお、きぜつしてしもうた。

 でのお、ごうよくなおとこがきがついたときには、おりにいれられとったよ。
そしてのお、大ぜいのひとつ目にんげんたちにみられとった。みせものにされたんじゃよ。
はじめのうちこそじぶんがまともじゃとおもうてはいたが、おおぜいのひとつ目にんげんばかりみていたものじゃから、じぶんのほうがおかしいとおもうようになってしもうた。
そしてとうとう、かた目をつぶしてしもうた。
ひとつ目にんげんになってしもうたんじゃ。

 おじいさんは「だからよくばりなにんげんになっちゃいかんぞ」と、おびえたひょうじょうをみせていた子どもたちにおしえていました。
 でもわたしには、もっとだいじなことがあるようにおもえました。
わたしがツバメであることをわすれかけていることを、このおじいさんはしっているのでしょうか。
おまえはツバメなんだよ、とさとしてくれているようにおもえたのです。

 もしかして、もしかして、このおじいさんはかみさまなのでしょうか。
 かみさまが、このおじいさんのこえをかりて、わたしをさとしてくれたのでしょうか。

 そらはどこまでもつづいています。高く、高く、そしてかなたにまで。
 なかまは、まだみえません。もうこきょうについているのでしょうか。
おひさまが、そろそろしずみかけています。
なにげなくみやったちじょうに、しんじられないものをみました。
いままでにたくさんのうつくしいこうけいをみ、うつくしいひともみてきました。
でもこれほどまでにうつくしいこうけい、そしてひとをみたことはありません。

 ゆうやけがみずうみにはんしゃしています。
こはんたたずむひとがいます、しずかにすいめんをみつめるひとです。
くろいひとみがすてきです。そのひとみのなかに、わたしがうつっているようなきがします。
きづくと、ひとすじ、なみだでしょうか、ながれています。
そしてこめんにとどき、キラキラととかがやいて、そしてゆらいでいます。

 あたりには、もうゆうぐれがせまっています。
 みどりのじゅもくとくさばな、みどりいっしょくです。
そのなかにいちりんさくゆりのはな。
そのうつくしさは、たとえようのないものです。
ゆりのせいなのでしょうか、そのひとは。

 もうのこりすくないいのちです、わたしはみていようとおもいます。
このいのちがつきるまで、みていようとおもいます。
このうつくしいひとが、なぜないているのか、わたしにはわかりません。
でもおもいたいのです、わたしのためにないているのだと。
だからそのひとみに、わたしがうつりこんでいるのだと。

 わたしはしあわせでした、ほんとうにしあわせでした。
 そしていまも、しあわせです。
こんなわたしのために、こんなわたしのさいごのときにないてくれるひとがいる。
こころがやすらぎます、おだやかなきもちです、もうふあんはありません。
ありがとう、ありがとう。

 このうつくしいみずうみで、わたしはねむります。
 そして、おやすみなさい……

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