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ターコイズブルーの従妹 

2014年12月27日 ナビトモブログ記事
テーマ:思い出すままに

実にはっきりした夢だった。

会話は殆どなかった。明るく広い部屋へ、従妹が笑いながら現れたのだ。その表情は「ほら、見て!」という、期待に応えて登場したような笑顔だった。私の大好きなターコイズブルーの長いワンピースを着ていたから。

そこで、目がさめた。意識はまだ、半分夢の中だったのだろう。

「ああ、恭ちゃんに会いたいなあ。今は、何処に住んでるんだったかな・・」私は一瞬、真剣に頭を巡らせたのだ。8年も前に、逝ってしまった人なのに。

おしゃれな恭ちゃんだったけど、ターコイズブル、一色に包まれているのも、非現実的だった。あの人はいつも、紫だった。ドレスもコートも、紫。がりがりに痩せて、くせのある髪の毛がふんわりと肩まで伸びて、冬でも薄手のワンピースを着ていた恭ちゃんは、ちょっと妖精めいていた。

恭ちゃんは私と同い年の従妹で、中学も一緒に学んだ同級生だった。母親同士が仲良しだったから、小さな頃からよく一緒に遊んだが、弟の上に君臨していた様な「お山の大将」タイプだった私と違って、三人姉妹の真ん中だった恭ちゃんは、協調性があってクラスでも信頼されていた。

地方都市の女学生らしく、学校の図書館から文庫本を借りてきては、「車輪の下」とか「次郎物語」など沢山の本を読み、その読後感想等をを話し合っては、通学の電車の中で興じていた。

私が、ピアノの勉強の為に上京してからは、交流がぐっと減った。仲間だ、と思っていた恭ちゃんは私とは違って男の子に人気があって、予備校時代からもう婚約者の様な人ができていたらしかった。長く伸ばしたくせ毛は、小柄な恭ちゃんを覆い尽くして、当時小悪魔的な魅力で有名だった女優さんにも似た雰囲気が漂っていた。

ひたすらピアノに打ち込んでいた当時の私からは、窺い知れない世界の住人の様で、共通の話題を探そうという努力すらも怠った。私がウィーンへ留学した翌年、恭ちゃんもパリへ留学した。母がヨーロッパ旅行をした際、私も一緒にパリに行って、恭ちゃんとも会った。

恭ちゃんは余り私と関わりたく無かったのかも知れない。パリに留学していた大学時代の友人たちの、親切な対応に比べると、恭ちゃんが手紙で教えてくれた連絡方法は、初めてパリを訪れた不慣れな異邦人には、余りにも簡略過ぎた。

散々苦労をして探し当てた場所には、見知らぬフランス人が何人か居て、恭ちゃんは殆どその人たちと喋っていて、私はちょっと悲しくなった。

その後、フランス人と結婚して男の子が生まれた、という話が親戚伝いに聞こえてきたが、いつ帰国したのか、どこに住んでいるのかも知らぬまま、自分の生活に追われていた私は、すっかり恭ちゃんのことを忘れていた。

40歳位になった頃、中学の同期会があって、連絡先が不明になっていた恭ちゃんの消息がわからないか、と幹事の友人から電話があった。地方都市の中学を卒業した、100名程の同期生のうち、半分以上が大学入学時には上京していて、ある意味県人会的な要素もあったのだろう、頻繁に東京で同期会が開かれていたのだ。

久々に伯母に尋ねると、今は都内に住んでるという、意外な返事。

何十年ぶりかに、同期会に姿を現した恭ちゃんは、何とその翌年、同期の一人と再婚したのだった。

私はたまたま、その頃主人の仕事について海外で一年間過ごしていたので、細かい経緯は知らないのだが,祝福したクラスメイトが、次回の幹事に恭ちゃんを指名したのは、粋な計らいだった。

次に送られてきた同期会の案内には、幹事の名前として恭ちゃんの新しい、でも皆にはお馴染みの苗字が印刷されてあり、一気に一同に周知されたのだから。

因みに、その10年位前には、クラスの中ではもう数少ない独身者同志、といった組み合わせで、私も同級生の一人と結婚して、ちょっと皆を賑わせたものだったが・・。

そのクラス会には、殆ど初めて主人と揃って出席した。近況報告の時に、「今日は、久々に主人と一緒に来ました。恭ちゃんに、私も幸せだ、と報告しなきゃね・・」と言ったのが、恭ちゃんのツボにはまったらしく、長い間離れていた二人の関係が、急速に近づいた様子だった。

幼い子供を残して奥さんに先立たれたばかりだった、新郎の友人は、近況報告でも「俺は、中学の時から恭ちゃんが好きだったから・・」と嬉しそうだった。

そういえば、クラス会で会う度に彼は、「恭ちゃんと親戚だったよねえ。今、どうしてるか知ってる?」と、尋ねてきたものだった。バツイチ同士だった二人の間には、長いブランクがあったのだろう。

お医者さんだった相手が、故郷で開業したので、二人は遠くへ去ってしまったけど、夏休みに帰省すると恭ちゃんに会うのが私の楽しみの一つにもなった。同い年の友人と思えない程、恭ちゃんはいつまでもスリムで若々しく、子供の頃我々はそっくりで時々見間違えられた、なんて話は冗談にも出せないくらい、恭ちゃんは未だに女性としての雰囲気があった。

それが、何度目かの夏。一年ぶりに会った恭ちゃんの第一印象から、ちょっと老けた感じを受けたのだ。でも元気そうだったし、暫くおしゃべりを続けていたのだが、恭ちゃんは突然、ガンの手術をしたのだ、と言った。ステージ4だという。

翌年の夏に帰省した際、いつもの様に恭ちゃんに連絡すると、「もう会えなくなってしまった・・。」という。詳しい事は聞かなかった。

それからは、暇があれば電話をして、一緒に思い出話にふけった。恭ちゃんは、昔のことは余り覚えてないらしかったが、私の話に触発される様に思い出がよみがえるそうで、少女時代に戻った様に一緒に笑った。余り笑い過ぎて「恭ちゃん大丈夫?こんなに笑って、くたびれない?」と、ふと我に返って尋ねると、「うん。そうだね。そろそろ切らせて貰うわ」と、それでも笑いながら言ってたものだ。

その後、入院したけれど携帯ならいつでも大丈夫だから、と私の電話を楽しみにしてくれている様子だった。ある時、私に対して、「やはり、ひとつの事に打ち込んできた人は、筋が通っていると思う」といったほめ言葉を聞かせてくれた。

50代も半ばを過ぎて、先生稼業も面白くなってきた頃で、自分の演奏会もここ数年は開いてなかった自分が猛烈に恥ずかしくなった。病床にいる恭ちゃんを、裏切っているかの様な気持ちに襲われた。

それは主人の仕事の関係で、新しい土地に転居して間もない頃で、集客の展望もなかったけれど、私はリサイタルを即、計画した。

アンコールには、ショパンの遺作のノクターンを弾こう、と決めたのは、公開レッスンの仕事で出かけた日だった。お昼休みの休憩時間、誰もいないステージ上のピアノで、何となくこの曲を弾いていた時、恭ちゃんと語り合っている様な気持ちになってきたのだった。

それから数か月後、恭ちゃんは亡くなった。

リサイタルの練習に専念していた頃は、ショパンを弾くといつも、恭ちゃんの気配を感じる気がした。20世紀の曲を並べた地味なプログラムだった事も勿論あるけれど、演奏会で一番評判が良かったのは、アンコールのショパンであった。



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小説、とは・・。

シシーマニアさん

きっと喜美さんは、相手の気持ちがよくわかる方なのですね。
実は、小説が書けたら素敵だなあ、とずーっと思っていますが、私には創作能力が無いようで・・。多分、思考がもう少し右脳に偏れば、何か書けるのかもしれないと思いながら、この数十年過ごしています。

2014/12/27 19:16:01

凄い

喜美さん

小説読んだ後みたいだったわ
何時も思っていました
素晴らしい人ね

2014/12/27 15:20:58

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