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迷いあってこそ私
義父はこれから三日後に 2022/08/09
2022年08月10日
テーマ:テーマ無し
義父から聞いていた話を残しておこう。義父は東南アジアで生まれ育った。戦争が始まった時に、長男である20歳の義父は七人の弟と妹を父親に託されて長崎に帰国した。当時、戦争で食べる事も大変な時に、いくら親戚でもそう容易すくはなかった事は、十分に想像できる。兄弟は散り散りに親戚に世話をしてもらい戦中を過ごした。義父の話に、辛かったとは聞いた事はない。ただ、東南アジアで生まれ育ち言葉も分からない事で馬鹿にされた事が悔しかったと。そして、長崎に原爆投下。末の弟は爆心地に居たはず。下記の記事は、義父の語る当時と酷似する。爆心地から25km離れた諫早で目撃した「生き地獄」の忘れえぬ記憶 | 諫早市公式ホームページ【いさはや】市の公式サイト。地域の概要・行政情報と生活ガイド。各地のイベントと公営施設の案内。爆心地から25km離れた諫早で目撃した「生き地獄」の忘れえぬ記憶 | 諫早市公式ホームページ長崎https://www.youtube.com/watch?v=2Ocq6X7WTfo義父はそれから三日後、弟を探しに長崎を歩いている。そして奇跡的に弟の形見を見つけ弔った。原爆のことについては多くは語らないが、弟を見つけた時の話をなんべんもなんべんも聞かせてくれた。原爆資料館企画展「復興の息吹 〜被爆後10年の歩み〜」
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