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敏洋’s 昭和の恋物語り

水たまりの中の青空 (光子の駆け落ち:一) 

2021年05月18日 外部ブログ記事
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 清子の死から一年ほどが経ち、明水館を覆っていたどんよりとした黒雲が取れかかった頃、関西から客が来た。
ビジネス関係の客は来ても、観光で訪れる人はいない。
宿帳に、京都市近江三郎と書かれた折には、皆が皆、おや? と思った。
案内をする仲居には、ビジネス目的とも思えず無論観光目的とも思えない。
不思議な感覚に囚われながら部屋に案内した。
「素泊まりで結構ですから。部屋も庭に面しているとか海の眺望が良いとか、そんな贅沢は言いません」。
安い部屋で良いからと力説したが、ならば明水館ではなくもっと格下の旅館でいいのではないか、そんなことも仲居たちの間で交わされることばだった。

 挨拶に来た光子に対し
「あなたが若女将ですか。お噂は伺っております。申し遅れました。ぼくは芦田権左衛門の親戚筋の者です。
母方の繋がりなので、おじさん、いえ大おじの権左衛門とはほとんど面識がないのですが」と切り出した。
「お客さまのことについてあれこれ詮索してはだめですよ。
そしてまた、他のお客さまと比することもしないように。
それぞれが大事なお客さまです」と、女将の心得として、きつく申し渡されている。
仲居見習いの折にも似たことは教えられているが、女将ともなれば口の端に乗せることなど以ての外ということだ。

「そうでございますか。それで、権左衛門さまの最近はいかがでございますか。
葬儀でのお礼にもうかがえず、申し訳ないことですが」と返した。
実のところはつい先日におお女将とともに病気見舞いに行ったところだった。
持病の狭心症が悪化して、胸痛が激しくなり入院したと聞いてのことだった。
諸々の家庭内のトラブルが重なり、心労が重なったのだと奥方は親戚間とのいざこざを匂わせた。
今年傘寿を迎えるにあたり、親戚を呼んでのことにするか家族だけの小ぢんまりとしたお祝いとするかで揉めたのが、直接の因だという。
「こののま呆けてしまわないかと、実のところは心配しているの」と、奥方が嘆いた。

「至って元気です、と言いたいのですが。女将さんはご存じだと思っていましたが、そうですか、話していませんか」と切り出した。
「嫁ですもので、なかなかと」。
これでまた珠恵に叱る口実を作ってしまった。
人を試すようなことをしてしまったと後悔したのだが、今さら知っておりましたとも言えず、ただ苦笑いの笑みを浮かべるだけだった。
「実は悪化しました。まさかこのままということはないでしょうが、念のためにとやって来たわけです。
大じさんの所に厄介になろうかとも思ったのですが、今ちょっと母と奥方との間でちょっとした揉め事がありまして。
ですので遠くからでも顔を見るだけでも、と思いました。
実は明後日から横浜で学会がありまして、一日前に出かけてきたというわけです」。
ときに薄ら笑いを浮かべときに哀しみのこころを感じさせ、ときにまた白い歯を見せてと表情豊かな男だった。

(素泊まりの理由はそれなのね、このお方は本物だわ)。
一瞬でも疑いの目を向けた己を恥じた。
「申し訳ありません、試すようなことをしてしまいました」と、深く頭を下げた。
「いやいやいいんです。いきなり飛び込みの、然も素泊まりだなんて、疑われても仕方のないことですよ。
それでお願いなのですが、ぼくのことは内密にして欲しいんです。
いまここに来ていることがバレますと、財産狙いだとか、また言われかねませんので。
でも、女将さんも大変でしょう。色々と噂は耳に入ってきています。
ご苦労されているとか、彼も非道い男です」。
勧められたお茶をすすると、パッと顔を輝かせて
「美味い! 実にこのお茶は美味い。女将さんが淹れてくれたせいでしょうかね」と、光子を見つめた。

 その表情に違和感を感じた光子だったが、最近は褒められたことなど一度もなく、どころか大女将の珠恵やら仲居頭の豊子には嫌みばかり言われていた光子にとって、久々にこころ弾むことばだった。
「ありがとう存じます、それでは」と部屋を出た。 

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