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敏洋’s 昭和の恋物語り

日光・東北旅行 [6月11日〜6月13日](十三) 

2021年02月07日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



もう少し東京ドームについての話をさせてくださいな。
どういうわけか、日光ツアーにおけるガイドの清野さんにお聞きしたんです。
ドームの屋根って、外と内の気圧の差で膨らませているとか。
ご存じでした? そういえば遙か昔に何となく聞いたような気がしているのですが、はっきりしませんわ。
それでですね、ドアの厚みが半端ないって話なんですが。
真偽は知りません、入ったことがないんですから。

ああすっきりした、では縄文時代へと戻りましょうか。
「すっきりしたのはあんたたげで、こっちは欠伸ものだったよ」。なんてことは仰らずに、ついてきてくださいな。

道路幅についてですが、思い出しましたよ。
前回に3〜4mはばだとお話した記憶がありますが、5mはあった気がします。
車とか荷車とかない時代でしょ? でね、こんなに「道幅がいるんですかね?」と質問したわけです、縄文ガイドさんに。
明快な答えはありませんでした。
よくよく考えてみればですね、文字がまだない時代ですし、そんなはっきり言ってどうでも良いことなんかの記録は残っていないということでしょう。
なんせ、15,000年も前のことですからね。
西欧で言えば旧石器時代あたりとということなんですねえ。

忘れてました、大事なことを。
いつものように、予備知識としてお勉強を。
−−−−−
縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称であったが、次第に生活内容を加えた特徴の説明が為されるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになった。
この時期区分を、AMS法(放射性炭素年代測定法)で測定して暦年代に補正した年代で示すと、草創期(約1万6,000 - 1万2,000年前)、早期(約1万2,000 - 7,000年前)、前期(約7,000 - 5,500年前)、中期(約5,500 - 4,500年前)、後期(約4,500 - 3,300年前)、晩期(約3,300 - 2,800年前)となる。

三内丸山遺跡は、今から約5900年前〜4200年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。
平成4年からの発掘調査で、竪穴建物跡、大型竪穴建物跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかりました。
また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。
ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。
平成12年11月には国特別史跡に指定されました。
−−−−−三内丸山遺跡HPより。

ここで、哀しい事実をお知らせしなければなりません。
間違えた、お知らせではなく報告ですね。
縄文時代(に限らず、まだ最近までと言った方が良いかも?)における、赤児(1歳未満)の死亡率が高かったのです。
理由について質問したのですが「栄養の問題やら自然環境の厳しさがあったのでは……」と濁されましたが、なんとなく理解できました。

赤児の墓は、住居近くに墓をつくって埋葬していたとか。
家庭にある、深さ30cmほどの土器に入れて埋葬していたということです。
「赤児が寂しくないようにという家族の思いだったのでしょう」とは、ガイドさんの感想でしたが、案外両親自身が寂しさを抑えるためもあったと、わたしには感じられるのですが。

まあ、霊魂の存在が信じられていたことですしね。
ただご先祖さまたちは、住居から離れた場所に埋葬されていたということでした。


お墓


お墓の説明板

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