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敏洋’s 昭和の恋物語り

敬愛する 芥川龍之介 を語る (作品)〜地獄変〜 

2020年08月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



私は、この地獄変について、語るべきか語らざるべきか、色々と迷った。
道徳的に考えれば、私にはどうしても語れない。
私自身を、この作品の主人公=良秀=の如きにせねばならなくなる。

私の主義として、作品を読む場合 ― 特に芥川の作品については、主人公に己をオーバーラップする。
そうでもしなければ、心理がわからないのである。
私は、やはり語ることにした。
それだけの価値を持つ、と信じたからである。

テーマは、もう語ることもなく、絵師良秀の芸術至上主義者のことである。
そして又、『戯作三昧』の或意味での続編である。
『戯作三昧』の中で安住していた芥川は、この『地獄変』では、更に一歩深く押し進めた。

目前に最愛の娘を火にかけて焼き殺しながらも、
「さながら恍惚とした法悦の輝きを、しわだらけな満面に浮かべ」て見守った。
自己の芸術的野心の為には、実の最愛の娘も
「唯美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人の姿」としてのみ、彼の目に映った。
もうそれは、唯の人間ではなく
「夢に見る獅子王」だった。その場合には、
「怒りに似た怪しげな厳かさ」さえ、感じられた。
「円光の如く懸ってゐる、不思議な威厳がある」
「何と云ふ荘厳、何と云ふ歓喜」。
芥川は、ここに芸術至上主義者としての理想像を描いた。

良秀の一生は、この一枚の屏風絵「地獄変」に代表される。
そしてその為に、ありとあらゆるものを犠牲にした。道徳はもとより、最愛の娘までも。
そして、良秀はそれが許されるとしたのである。
「そこへしどけなく乱れた袴や袿が、何時もの幼さとは打って変わった艶かしささへも添へております。
― 略 ―。すると娘は唇を噛みながら、黙って首をふりました。
その様子が如何にも亦悔しさうなのでございます」

良秀は、自分の娘に何かをしたのである。
誰とは書いてはいない。
娘も言いはしない。
しかし、明らかに良秀なのである。
そしてそれをどうやって知ったのか、大殿が良秀を戒める為に、あの牛車の火あぶりを許したのである。
さすがの良秀も
「急に色を失って喘ぐように唯、唇ばかりを動かした」のである。
そしてその屏風絵「地獄変」の完成の次の夜、梁へ縄をかけて縊り死んだ。

芸術の為に実の娘を焼き殺し、そして自らの命を断ったのである。
何故? 私はこう受け取った。
芸術の為には如何なる非道徳的行為も許される、と信じたものの、やはり道徳よりの犠牲を余儀なくされたのである。
前にも述べたように、芥川には倫理的なものが彼の信念の前に横たわり、又それが後ろ髪を曳いていたのである。

芸術上での完成は、現世での敗北を意味する。
「地獄変」の屏風は、見る者をして炎熱地獄の責め苦、大苦難をじかに感ぜしめても、良秀の墓は、
「雨風に曝されて」その存在もあやふやになっている。

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