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敏洋’s 昭和の恋物語り

ツバメの旅 どうわ集 第二章 冬の街角で 

2020年04月16日 外部ブログ記事
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 それは、冬のあさでした。
 わたしは、あのかなしいうんめいの仔牛さんのさいごをみとどけると、おもたくなったはねをむりにうごかしてここまでやってきました。
大きなビルや、しょうてんのたちならぶまちの上をとんでいるときでした。
仔牛さんとくちげんかをしているあいだに、わたしのなかまは南のほうへとんでいってしまい、わたしひとり、とりのこされてしまいました。
そんなさびしいときのことです。

「さいまつたすけあいうんどうにごきょうりょくくださーい!」というこえを、みみにしました。
いきかう人はみなさむそうです。
オーバーコートのえりをたてて、かぜのつめたさをふせいでいます。
そしてだれもそのこえにこたえず、サッサとあるいていきます。
けれどみながみな、なにかわるいことをしたようなかおつきです。
でも、だれもわるいことはしていないのです。

みなさん、わすれものをしたようなおもいをいだいてるかんじなのです。
けれどそれとて、しかたのないことかもしれません。
じぶんをぎせいにしてまで、あいてをたすけるひつようもぎむもないのですから。

 ぜんいからの心からのたすけでないとだめなのですね。
じゅうぶんによゆうのある、じぶんにとってすぐにはひつようのないお金でなければだめなのです。
なにも、こどものおかしだいをけずってまでそのはこに入れることはないのです。
けれど、心のこりなおもいなのです。

 それがにんげんなのでしょうーじぶんをすこしぎせいにしてでもあいてをたすけようとするーわたしには、りかいできません。
まわりをみわたしつつ、みなさんとおりすぎます。
それでいいと、わたしはおもいます。

 あたりまえです、たにんのことまでめんどうみられません。
だれもがすまなさそうにしながら、しらんふりしてとおりすぎます。
はなのあたまを、みみをまっかにしてさけんでいる、「りんごちゃん」たちをみるひとはいません。

 ところがおどろいたことに、すこしさきにいったばしょで、オーバーコートをかたにかけてまつばづえたっている戦争傷病者のもつおなべには、つぎからつぎへとお金がはいっていきます。
そのひとは、なんどもなんども、おれいをいっています。
とてもいいまちです。
よりかわいそうなひとをたすけているのです。

 わたしのはねがあたたかくなりました。
「やっぱり、にんげんはすごい!」

 が、つぎのしゅんかん、わたしのはねは前よりもっとおもくなりました。
お金を入れた人たちの、ものめずらしげな目・なかばさげすむような目をみたとき、あめがふってきました。
 でも、そらはあおいのです。
ショックでした。
わたしたちツバメは、なかまをたすけることはしません。
おくれたなかまをまちはしません、わたしがおいていかれたように。
でも、さげすみはしません。
あいてのふこうをみて・しって、じぶんをなぐさめるようなことはしません。
ゆうえつかんにひたろうなどとはしません。

 にんげんはみな、ふこうなのでしょうか? 
わたしは、いっそうのさびしさをかんじながら、なかまにおいつくためとびたちました。            

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