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隣人 

2019年08月24日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

嫌なこと、煩わしいことは、もうやりたくない。
好きなことだけをやり、日々を安楽に過ごしたい。
と言う思いが、年と共に強くなっている。

若い頃の私は、こうではなかった。
向上心や克己心というものがあった。
八年前、経営していた金物店を閉じ、完全にリタイアした。
あの頃が、自己中心主義へと転じた、ターニングポイントだったと思われる。

商人の場合、売上の増減が、そのまま幸不幸に結びついてしまうところがある。
若い頃の私が、商売熱心であったのは、その幸を求める気が、
強かったからだ。
売上増のために、客の意向に添い、サービスにこれ努めていた。
中には、横柄な客も居た。
これをどう懐柔し、顧客たらしめるか……
というところに腐心をしていた。

客の無理難題に対しても、感情をあらわにせず、
これを丸く収める。
そこが腕の見せ所ということになる。
「ならぬ堪忍、するが堪忍」というような、悲愴なものではない。
「なあに、売ってしまえば、こちらの勝ちさ」
くらいの面従腹背を、私の場合は、ごく自然にやっていた。
これをよく言えば「柔軟」悪く言えば「ずるい」ということになる。

私が仮に、元禄期の殿様であったとしても、
浅野内匠守のようなヘマは、決してやらなかったであろう。
直情径行は、決して褒められるものではない。

無事是名馬ということがある。
私は、商人として大成したとは、とても言えないが、
無難に商店主人生を全うした、くらいには思っている。

そんな面従人生の、時を経ての、反動であるかもしれない。
最近とみに、私の忍耐心が薄れている。
政治、社会の諸問題から、交友、嗜好に至るまで、
好悪の感情の振幅が大きくなっている。
嫌なものは嫌だ。
何も、我慢することは、ないじゃないか。
という思いが強まっている。

 * * *

若い頃、中国へ行きたいと思った。
中国史に興味があった。
万里の長城を歩いて見たかった。
秦の始皇帝陵を眺めて見たかった。
その中国で、反日デモの嵐が、吹き荒れたことがあった。
それが収まったら……と思っているうちに、
機を逸してしまったことがある。
海外旅行と言うのは、行き慣れた人には何でもないが、
私のような不慣れな者には、実行に移すまで、
厖大なエネルギーを要するのだ。

韓国にも行きたいと思った。
最も近い外国ではないか。
国内旅行の延長で、気軽に行けそうに思った。
ソウル辺りの碁会所に入る。
現地の人と碁を打つ。
片言の韓国語でもって、感想戦をやる。
それは格別に楽しいことのように思われた。
これも、考えているうちに、機を逸してしまった。
あの国では、折に触れ、反日デモが発生していた。
そんなに嫌われているところへ、わざわざ行くこともない。
と言う思いがあった。

私は、外国への旅を諦め、国内旅行に専念することにした。
その結果、全国津々浦々とは言わないが、
多くの都道府県を訪れることが出来た。
我が旅行人生に、悔いはないと思っている。

このところ、韓国との関係が、風雲急を告げている。
思えば、これほど反りの合わない隣人も居ない。
歴史の皮肉である。
友人は選べても、隣人は選べない。
天の配するところにより、好むと好まざるにかかわらず、
隣り合うことを運命づけられてしまった。

かつて、司馬遼太郎さんが、次のように語っている。
「朝鮮・韓国人と日本人の、集団対集団の間柄については、
楽観的気分を持ち兼ねる。
隣人として、互いの文化と歴史を理解し、
尊敬し合える時が来るのは、百年以上かかるだろう」
あの見識の豊かな、司馬さんでも、匙を投げてしまっている感がある。

両国間の作用と反作用が、歴史上において、
あまりにも重なり過ぎてしまった。
征服者と被征服者だった時期もある。
あちらには、怨念があるだろう。
隣人に土足で踏み込まれた、その屈辱は、抜き難い鬱積として、
残っていると思われる。
だから、徴用工にしても慰安婦にしても、
彼らは容易に妥協をしない。

政府間の対立が、激しさを増している。
国民の交流にも影が差し始めている。
今はもう、韓国へ行く気もない私は、
これを他人事のように眺めている。

若い頃の私であったら、政府に対し、抑制を求めたであろう。
無理難題を言う相手に、柔軟に対応し、
譲歩を引き出すのが外交ではないか。
名を捨てても実を取れ。
これが商人の感覚である。

こりゃ、だめじゃ……
なるようにしか、ならんやろ……
今の私は、突き放して見ている。
両者を……と言いたいが、どちらかというと、韓国に対し厳しい。
私にはやはり、利己主義が台頭している。

隣人だからとの理由で、無理な交際を維持することもない。
冷却期間を置けば良いではないか。
昔、村八分という言葉があった。
日頃の付き合いは、八分通り行わない。
葬式と火事、これだけは別だ。
二分だけ付き合う。

何も隣人だからとて、無理に親しくする必要はない。
冷静な関係で、構わないではないか。
不幸があった時だけ、助け合う。
援助の手を差し伸べ、そこに見返りなど求めない。

こんなクールな隣人関係も悪くあるまい。
私は隣国のことを、好きではないが、さりとて、
虫唾が走るほどのことはない。
付かず離れず、あっさりと……
こんな関係になればよいのにと思っている。



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