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パトラッシュが駆ける!

意外な客 

2019年08月03日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

自転車を引いたご婦人が、道の真ん中に立ち、
こちらを見ている。
その視線が、定まらない。
ガラス戸越しに、サロンの内情を、
探っているようにも見える。

私は、小学生のM子を相手に、碁を打っている。
こういう時、商売熱心な席主なら、扉を開け
「どうぞ」と促すであろう。
「入ろうか、入るまいか……」
店頭で迷っている客に「へえ、らっしゃい」
と声をかけるのは、商売の常道とされている。
八百屋とか魚屋なら、さらに
「今日は安いよー」と叫ぶであろう。
ラーメン屋なら「美味いよー」パチンコ屋なら
「出てるよー」居酒屋なら「ただ今の時間、
生ビールが298円」などと叫ぶであろう。

さすがに囲碁サロンにおいては、叫ばない。
「見学は無料です。どうぞ中に入り、ゆっくりご覧ください」
と勧めるくらいだ。
引き入れて、椅子に座らせたら、もうしめたもの。
頃合いをみて「試しに一局、打ってみましょうか。
いえ、今日は無料です。気楽に気楽に」なんてことを言う。
打ち始めるや「やあ、お強いですねえ」とおだて、緩める。
つまり手加減をして、勝たせてあげる。
「あーたは、なかなか筋がよろしい」
これに気を良くした客が、再来し、回を重ねることにより、
やがて固定客となる。
これが囲碁サロン経営の定石とされている。

この定石を無視するのが、私のサロンだ。
そもそも、客を集め、増やし、稼いでやろうと言う気がない。
私の道楽の場として、設けたのであり、
この商売で食っているわけでない。
その証拠に、子供達には無料で碁を教えている。
大人に対してだって、席料は頂かない。
指導料の名目で、ワンコインを頂戴しているに過ぎない。
一局打つのに、一時間から一時間半かかる。
時給に直すと五百円……
これが他人への給与であったなら、最低賃金法という法律に、
きっと抵触するだろう。

余技である。
道楽である。
だから、やっていられる。
だから、その代わりに、忍従する必要もない。
客を引き入れるどころか、むしろ選ぶ。
「当サロンは、会員制になっております」との張り紙を掲げ、
これはどうも……と思われる客が来ると
「ただいま、空きがございません」として、断わってしまう。
何時も閑古鳥が鳴いている、サロンの様子を、
通りがかりに見ている客は、この驕慢にきっと呆れるであろう。

但し、実際に断った例はない。
あくまでも、よほど風体の怪しい者が、現れた時のための、
予防策である。
特に女性は断らない。
年齢その他の条件に拘らず、これまで断った例がない。
席主が女好きだからだ。
老若に拘らず、サロンが、女性客で満ちている時、
私はハーレムの王になったような気分になる。

件の女性が、引いていた自転車を止め、遂にガラス戸を開けた。
「少々お伺いしたいのですが」
それ来た。
彼女の逡巡の時間は、異例なほどに長かった。
どうせこうなるのは分かっていた。
暑い戸外に突っ立つくらいなら、さっさと店内に入ればよいではないか。
これでも一応、冷房は利かせてある。

「さ、どうぞ。こちらへどうぞ」
私は、椅子を勧めた。
「遠慮は要りません。ちょうど手が空きました。
この子と一局、試しに打って頂きましょう」
「いえ、あの……」
「大丈夫、今日は無料ですから」
「いえ、あの……」
「それで、棋力は?」
「は?」
「棋力、碁の実力です」
「ありません」
「は?」
「囲碁はやったことがありません」
「なるほど、入門志願ですね。
最近多いんですよ、女性で囲碁を始められる方が」
「囲碁とは関係のない話で来ました」
「は?」
「実は、今朝の朝刊で、お名前を拝見しました」
「ああ……」
「囲碁サロン経営って出てましたので、もしかしたら、
ここかなって……」
「はい」
「先ほど、そちらの郵便ポストで、お名前を確かめました」
「はあ」
「とても、良いことを書いて頂きました」
「いえいえ」
「ご立派です。全ての選挙で、棄権したことがないなんて」
「いえいえ」
「見習いたいと思います」
「いえいえ」
攻守ところを替え、今度は私が、喋りまくられている。
この様子を、M子が不思議そうに見ている。

投稿文が、新聞の読者欄に載り、見ず知らずの人から、
電話がかかることはある。
住所地と職業から、番号を探し当てるのであろう。
訪ねて来たのは、初めてだ。
いっぱしのことを言う投稿者が、一体どんなやつだろうと、
興味を持ったのではあるまいか。
どうやら、この顔を見て、納得されたようだ。
ということは、予想と大きく違わなかった、
ということかもしれない。

「またどうぞ。通りかかったら、お立ち寄り下さい」
「ありがとうございます」
「これを機会に、囲碁もなさいませんか?」
「ホホホ……考えておきます」
「ご覧の通りの、ヒマなサロンです。遠慮なくどうぞ」
「近所に、碁の好きなお年寄りがいます。
今度お連れしてよろしいでしょうか」
「どうぞ」
年寄りでも男でも、この際、贅沢は言うまい。
「会員制」との掲示は、もう有名無実となっている。

サロンを開いた私の目的が、もう一つあった。
肩書が欲しかった。
例えば名刺である。
名前と住所だけでは、いかにも寒々しい。
新聞に投稿する際だって、職業=無職では、
人生の盛りを過ぎた、もっと言えば「世捨て人」の感がある。
食えなくても、店さえ開いていれば、現役で居られる。
経営者を名乗ることが出来る。

今回だってそうだ。
囲碁サロンを目当てに、彼女は訪ねて来てくれた。
仮に無職であったなら、探すことさえしなかったであろう。
私は今後も、ヒマな囲碁サロンに、この雁首をさらし続け、
現役経営者であり続けたいと思っている。



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