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人生いろは坂

明るく生きる 

2011年05月28日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 福島県の原発事故は発表の度毎に驚くような新しい事が明らかになっている。しかし、全てのことは
大津波後、短時間の間に始まり最悪の経過をたどっていた事である。私が事故の報道を聞いて、心凍る
思いを抱いていたことの全ては事実であった。

 核燃料棒は冷却機能を失ったときから猛烈なスピードで温度上昇を続け、自らも溶解し更には圧力
容器自体にも穴が開き、冷却水、核燃料もろとも落下を始めたようである。それがあの水素爆発に
繋がったのである。

 たとえ外部電源が失われていなかったとしても、あの大津波で冷却水の循環ポンプも制御設備も、
場合によっては冷却水の循環ラインそのものが損傷をしていたかも知れない。最悪の結果は時間の
問題であったに違いない。

 そもそも大津波の来襲があるかも知れないような危険きわまりない設備を海岸近くに作るべきでは
なかった。私のブログに何度も書いたように明治29年、昭和8年と、地震とそれに伴う大津波を経験
している地域だからである。どんな防波堤を築いても防ぎきれないことが今回の大津波で明らかに
なった。人の知恵や力とはそのようなものである。

 人間の生涯は、平均寿命が長くなったとは言えたかだか百年である。今回の大地震や大津波の
後遺症は長く孫子の世代に引き継がれていくことになる。戦後の復興を私達世代が背負ってきた
ように、これからは震災世代が新しい時代を作っていくことになる。

 私達世代は少なくとも彼らの邪魔者にならないよう、邪魔をしないようにしなければならない。
それが今日のような時代を作り出してきた私達の責任だと思う。国会での議論のように、海水の
冷却を止めたとか止めなかったとか、いまさら追求しても意味のないような不毛な議論は止めて
貰いたい。

 もっと復興に向けた前向きな話をすべきではなかろうか。ましてや原発問題はこれからの問題で
ある。事故処理は始まったばかりである。

 全てが夢であればいい、そんな思いは東北地方の被災者だけではない。私自身もそのように思って
いる。大災害前までは何だかんだと言いながらも平和であった。それが、あの大災害で一挙に変化
してしまった。何をしていても、ついつい思いは東北地方の方に向いてしまう。それは人情という
ものであろう。

 起きてしまったことをいまさら悔いてもしようがない。生きている限り現実に目を背けて過ごす
わけにはいかない。ましてや住み慣れた日本を離れるわけには行かない。ではどうしたら良いか。
せめて心だけでも明るく保つ他はない。心まで涙で曇っていては体まで傷つけてしまう。心と体は
ひとつのものである。ましてや病は気からと言うではないか。だったら気持だけでも切り替えて
明るく生きていきたい。そう思うのである。

 被災地の子ども達の溌剌として明るく屈託のない姿には癒される。ましてや無心に眠る幼子の
姿には心温まるものを感じる。彼らには生きる力が満ち満ちているからだ。私達に出来ることは、
彼らの心を曇らせるような姿だけは見せないことだ。子は親の姿を見て一喜一憂しているからだ。

 さて、今日は活弁をしに鏡野町へ行く。台風二号がこちらへ向かっている。台風に負けたくない。
自然現象をも我が心の持ちようで変えて見せたい。そのように思っている。意志強く持つことこそ、
今の私達に強く望まれることである。

 私達夫婦が活弁で見せる映画は屈託がない。実に明るい。貧乏を笑い飛ばしている。映画自体が、
そのように作られているからだ。人はそのようにして苦しく貧しい時代を生きてきた。

 全ての出来事は自分の意識の中に生じていることだ。昨今はより強くそのことを感じるように
なったし意識するようになった。思いは通じるものである。

 先日の活弁は私の父方の祖母が生まれた場所で行った。神辺町を出るまで近くに住んでいながら
訪れた事のない場所であった。まして、今日まで幾らでもその機会があったはずなのに訪ねようと
しなかった。不思議と言えば不思議であった。

 それが思いがけず活弁を通じてそのチャンスを貰い、つい先日ついにその地を訪ねることになった。
そのことに付いては次回に譲りたい。

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