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人生いろは坂

環境問題は終わっていない 

2011年05月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 ネット上の記事によると、アメリカでは多数の竜巻が大きな被害をもたらしたばかりだが、今度は
中西部から南部にかけての広大な地域で、先月からの大雨の影響による大規模な洪水が起きている。
今後、製油所が操業中止になる可能性が出るなど、アメリカ経済への影響も懸念されているようだ。
 
 ミシシッピ川で起きた洪水は、水位が最大18メートルに達し、テネシー州など4つの州で非常
事態宣言が出されている。この地域には10か所の製油所があり、被害が拡大すればアメリカ経済
への深刻な影響も懸念される。今週に入って原油価格が一時高騰した他、被害の拡大が予想される
南部の製油所では操業を中止する可能性も出てきている。また、全米第3位の規模を誇るカジノ街
ではホテル周辺が水没し、営業中止に追い込まれている。

 このように異常気象によると思われる天災が相次いで生じている。地球温暖化による気候変動は
決して終わってはいない。むしろ被害は大きくなり、発生頻度も加速しているように思われる。

 近頃、日本では5月に入っても黄砂が飛んでくるようになった。中国内陸部の乾燥化が更に進んで
いるのだろうか。また、この黄砂、公害物質と思われるものから、微生物、果ては核物質まで含まれて
いると言うから物騒だ。

 いま韓国内では黄砂の中の核物質が大きな問題になっている。隣国日本の原発が水素爆発、メルト
ダウン、海洋汚染と相次ぐ報道で、かつてないほど神経質になっているようだ。今まで考えた事も
なかった核問題が大きな社会問題と化しているのだ。

 それだけに他国から飛んでくる核物質には必要以上に神経質になっている。その一つが黄砂に
混じって飛来する核物質である。これらの多くは新疆ウイグル自治区内ロプノール周辺で行われた
40数回にも上る大気圏内の核実験によるものだと言われている。

 中国国内では報道管制により明らかになっていないが、周辺住民に大きな被害が生じているのでは
ないかと言われている。ここで行われた核実験による核物質が海を越えて日本まで漂着している。
このことは早くから専門家の間で問題視されながら何故か報道されて来なかった。

 さて、今回の東日本を襲った大地震と大津波は私達に何を警告しているのだろうか。吉村昭氏の
記録的小説「三陸海岸大津波」によれば過去の度重なる教訓が全く生かされていないことに愕然と
せざるを得ない。

 その悲惨な経験は、そう遠い昔のことではない。明治29年、昭和8年と言うから時間軸で言えば
つい最近の事である。記憶の風化だけでは済まされない、人間のとんでもない勘違いや思いこみ、
「おごり」だとしか思えない。

 「おごり」と言えば原発の問題もある。大津波の報道があって間もなく原発の冷却系統が完全に
失われたという報道があった。私は瞬間にメルトダウンを想像し、津波の被害もさることながら、
その報道の方に心震えた。

 ついに来るべきものが来たと感じたからである。いつかこの日が来るのではないかと言う漠然たる
思いは常にあった。あってはならない事ながら、私の経験上から人がやることには必ず手落ちがある
ことを考えていたからである。これら全て人間の「おごり」によるものである。俗な言葉で言えば、
なめてかかったことによるものである。

 私達は太平洋戦争戦前の貧しい生活と抑圧された軍国主義から一挙に解き放たれ、その開放感と
さあこれからだという思いで戦後めまぐるしいほどに経済発展を成し遂げてきた。

 この間、大国の核実験による大量の核物質が降り注いだことも意に介する事もなく、更にはビキニ沖
で操業中だったマグロ漁船「第五福竜丸」の久保山愛吉さんらの被爆問題も瞬く間に忘れ去られてきた。

 あの忌まわしい水俣病の被害でさえ経済発展を止めさせるものにはならなかった。経済という化け物
は社会の様々な芥(あくた)をどん欲にも飲み込みながら大きくふくれあがってきた。その姿は「千と
千尋の神隠し」に出てくる「くされの神」にも似ていた。

 会社にあっては右肩上がりが当たり前で、他社の動向が常に目の前にあった。これら経済発展が
何をもたらして来たのか。その結果、家庭は崩壊し、人と人の関係がいびつなものになり、欲望の
おもむくままに行動するもの、欲望から遁走し家族も家も捨てたもの、精神的な病に苦しむもの、
自ら死を選んだもの、社会のアウトローと化し罪を犯したもの、数え上げれば切りがないほどの
社会現象を生み出してきた。

 更には低開発国や発展途上国などを犠牲にし、自国のみ、あるいは自社のみの経済発展を目指し
続けている。それが莫大な石油や石炭、あるいは天然ガスの消費となって環境破壊をもたらしてきた。
今もひとときの休みもなく続いている。いったいこの先に何があるというのであろうか。

 原発一人を悪者にすることはたやすいことである。しかし、それだけで良いのだろうか。その恩恵
を甘んじて受け入れてきた私達に責任や罪はないのだろうか。あまつさえ今も休みなく二酸化炭素は
大量に吐き出され、地球温暖化とそれに伴う気候変動は激しさを増している。

 原発に代わる手段がないとすれば大量の電気エネルギーを使うこと、それ自体を見直すしかない。
それにも関わらず社会には不平や不満が満ち満ちている。これではあの忌まわしい教訓が生かされて
いない。私達はいつになったらそのことに気が付くのだろうか。それとも気付かないまま行くところ
まで行くしかないのだろうか。

 私達は質素で慎ましく、自然の恵みをほんの少し分け与えて貰いながら生きていくべき存在では
なかったのか。不遜にも自然を克服する、自然を制覇する、自然環境を変えていく、そんな生意気な
ことが言えるような存在なのだろうか。どこかで何かを間違えたような気がしてならないのである。
とんでもない勘違いをしているような気がしてならないのである。

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