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独りディナー
幸せの時間
2018年05月22日
テーマ:音楽
昨年の6月、主人が亡くなって以降、私は何をしていたのか、余り詳細には憶えていない。
亡くなる数週間前には、しょっちゅう顔を見せていた息子も、ばったり顔を見せなくなった。
息子にとって、父親が亡くなると言うことは、人生の岐路に立つこと、でもあるらしい。
葬儀の後の事務整理のために、何度か名古屋へ来てくれた娘も、一泊くらいで新婚とも言える旦那様の元へと、いそいそと帰って行く。
色々な方へのお礼のご挨拶も済み、お役所通いも一段落した頃、9月に故郷で納骨を終えて帰ってきた私は、気の緩みだろう、家の近くで足を捻挫した。
それからの一ヶ月間、私は一人で生活することに専念した。
ネット通販だけで、どれだけ生活を維持する事ができるか、テストケースのような気分でもあった。
「他人には、迷惑をかけるな」
これが、私の得た、39年間一緒に暮らしていた主人からの、最も実務的な教訓だったかも知れない。
杖を付いて外出が出来る頃になって、よく一緒にデュオコンサートをする友人に会った。
彼女は、コンサートのスケジュールの関係もあって、主人の病気のことを早くから伝えて居た、数少ない友人の一人だったのだ。
私の状況をよく知っていて、日常生活に戻るにはピアノを弾くことが最善の道であることもよく知って居る彼女とは、自然にコンサートの企画の話になった。
プログラムを決めて、日程を決めて、いつもの様に、名古屋と東京の二カ所で、スタジオを押さえて、コンサートへの道を歩み出したのだ。
コンサートは、準備する者にとって、ある意味受験勉強とも似ている。
限られた時間内でというか、限られた日程内で、出来うる限りの準備をする。
アスリートとも似ているかも知れない。
私にとって、それは充実した数ヶ月であった。
名古屋の演奏会を10日後位に控えた夕方、彼女から電話があった。
手術をする事になったので、演奏は事実上無理になったという。(今は順調に回復している・・)
私をずっと支えてくれてきた、その彼女の病気を知ったショックを、言葉で表現するのは難しい。
コンサートは彼女の友情で成り立っていたのだから・・。
ところが、そこで支えてくれたのが、コンサートの中止をお伝えした、名古屋の友人達の応援だった。
デュオ・コンサートが無理なら、ソロのミニコンサートはどうですか、と言って奔走してくれたのだ。
教会の礼拝堂が、同じ日程同じ時間に使えるからと、牧師先生のご厚意もあって、急遽教会でバッハを弾くという、得がたい経験をした。
私はいつも、バッハを弾くときは教会の響きを思い描きながら、イメージをふくらませる。
その頃の私は、バッハを弾くことで慰められていた、と思う。
バッハを、毎日練習する事が、とにかく楽しかった。
一週間弱の準備にもかかわらず、教会には大勢の方々が集まって下さった。
教会の礼拝堂は天井が高いので、響きが良い。
私は、モーツァルトやショパン、ドビュッシーなどの名曲も弾いた。
それは、人生も捨てたもんじゃないな、と思える幸せな時間であった。
そして、幸せの時間は、それだけではなかったのだ
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