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人生いろは坂

映画と私 

2016年09月13日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 シン・ゴジラなる映画が劇場公開されました。久々の日本初のゴジラ映画です。今までにも
ゴジラは様々に姿形を変えて登場してきました。しかし、強く記憶に残っているのは何と言っても
円谷監督による最初の映画でした。

 この初めての「ゴジラ」なる映画が上映されて、ずいぶん長い年月が過ぎました。この映画を
観たのは小学生の頃でした。確か学校から、みんなで歩いて映画館へ行きました。 興奮冷めやらず
映画を見終わって暗い客席から映画館の外に出て、ほっとしたことを思い出します。そして長く
記憶に残ることになりました。

 最初の映画は、非常にメッセージ性の高い映画でした。被爆国であり、第五福竜丸の被曝事件も
あって、放射能被害が声高に論じられていた時代でした。放射能は突然変異を引き起こし、巨大な
化け物のようなものを作る。それが映画を見終わっての印象でした。

 この映画のことが忘れられなくて作文に書きました。その作文が評価されて賞を貰い、文集と
なったものが、今も私の手元にあります。

 広島、長崎、そしてビキニ環礁沖のマグロ漁船の被曝、更には今回の福島第一原発の爆発事故と
それに伴う放射能汚染。どうして日本はこのような運命にあるのでしょうか。不思議な事です。

 娯楽の少なかった時代、芝居や映画が大好きだった私は、幼い頃から両親に連れられて良く映画を
観に行きました。住んでいた神辺の映画館だけでなく、電車に乗って福山の映画館にも行きました。

 そして、その頃は盛んに小学校の講堂でも映画鑑賞会が行われていました。講堂の床に茣蓙を敷き
その上に座って映画を観ました。また、中学校の校庭でも映画が上映されました。夏のことです。

 私は、何本観ても飽くことはなく、友達の中には映画を観ると頭が痛くなると言う子もいましたが
何故か私は平気でした。と言うか、続けて何本観ても飽きなかったのです。

 こうして学生時代も、そして大人になっても映画好きは続きました。夜勤明けにも関わらず一日中
映画館で過ごしたこともありました。映画を観ていれば幸せでした。

 この頃は、しばしば映画監督になることを夢見ていました。小説好きだったこともあり読んだ小説が
ことごとく映画のシナリオになり、配役まで頭の中に浮かんでいたのです。

 そして、今も少しだけ映画に関わっています。無声映画の弁士をしています。無声映画の弁士と
言えばスクリーン横に立って映画説明を行う人の事ですが、私のイメージの中の弁士は講談師のような
語り口調でした。

 しかし、初めて実物を見た弁士は少し違っていました。声高に語るのではなく、どちらかと言えば
淡々と台詞を語り、映画説明を行う女性弁士にすっかり魅了されていました。

 このときから映画好きだった私に次の展開が準備されていたのかも知れません。女性弁士との出会いも
唐突で不思議でしたが、その後も何かに突き動かされるようにして弁士を呼び、活弁シネマライブなる
ものを開くようになっていました。

 そして、いつしか私たち夫婦も活弁のまねごとをするようになっていました。脚本を書き、練習を
繰り返し、作曲を頼み、時には演奏して貰うという、活弁をやろうと思えば大変は大変ですが、なかなかに
面白いものでもあります。

 今も映画は大好きです。今は近くに映画館がなくなったので車で移動しなければなりません。更には
ゆっくり映画鑑賞でもという時間がなくなりました。それでも映画館に足を運んでいます。映画には
テレビでは味わえない良さがあります。

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