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敏洋’s 昭和の恋物語り

関西旅行 一日目一日目(pm 16:25〜)官兵衛縁(ゆかり) 

2016年01月31日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



お城から出まして、大広場に戻ってきました。

ごめんなさい、その前に。
この姫路城は、大河ドラマの「軍師官兵衛」の舞台の一つになったわけですよね。
そこで、黒田官兵衛ゆかりの物を探しました。

ありました、ありました。


 石垣

 縁の説明書き

 曲輪(備前丸)

ここで、曲輪についてのお勉強を。
(興味のない方には、ごめんなさいです)

安土桃山時代以降の城では、それぞれの曲輪はその用途によって「○○曲輪」「○○丸」などと呼ばれ、また時代や地域によっても名称は異なる。
“本丸”“二の丸”など曲輪を“丸”と言うようになった起源や語源はわかっていないが、「○○丸」と呼ばれる曲輪は安土桃山系城郭と呼ばれる系統の城や江戸時代以降の近世城郭の主要部の名称にみられる。
また、堀田浩之は日本の城に中心から「本丸」「二の丸」「三の丸」という名称が共通して名付けられているのは、曲輪の理念上の編成をわかりやすく示すためのものであると解釈し、上級権力による城郭の新しい概念における管理上の記号として、軍学をもとに登場したものであろうと、推定している。
「丸」とは日本語では球体も意味するが、これにいう「丸」とは円形のことで、江戸時代の軍学関係の書籍を引用して後述するように城は円形につくることが好ましいといわれた。

山里曲輪・山里丸(さまざとくるわ・さまざとまる)
遊興のための屋敷や庭園を造営したもの。
池を掘ったり築山を築いたり、四阿や茶室などを設けてある曲輪。
豊臣期大坂城・姫路城・明石城・伏見城・肥前名護屋城などにみられる。
江戸時代には大名庭園として城内だけでなく城外や藩邸にも造られるようになった、江戸城の吹上も山里曲輪のひとつと考えられ、かつては吹上奉行が置かれ、現在は皇居の吹上御苑として残る。

姫路城主の居館は当初、天守台の下にある本丸にあって「備前丸」といった。
これは池田輝政の所領備前国にちなむ名である。
しかし、備前丸も山上で使いづらいため、本多忠政は三の丸に本城と称する館を建てて住んだ。
以降の城主は本城、あるいは中曲輪の市の橋門内の西屋敷に居住している。
徳川吉宗の時代の城主・榊原政岑が吉原から高尾太夫を落籍し住まわせたのもこの西屋敷である。
西屋敷跡およびその一帯は現在では姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」として整備されている。


 内曲輪の航空写真(国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成)
姫路城を北方から望む。天守手前に姫山原生林が見える

内曲輪は大きく分けて本丸・二の丸・三の丸・西の丸・出丸(御作事所)・勢隠曲輪の多重構造になっている。
さらに内部は、いの門・ろの門などいろは順に名付けられた門などによって水曲輪・腰曲輪・帯曲輪などの曲輪に細かく区切られている。

内曲輪の通路と門
内曲輪の通路は迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、さらには天守へまっすぐ進めないようになっている。
本来の地形や秀吉時代の縄張を生かしたものと考えられている。
門もいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、また、分かりにくい場所・構造をしていたりと、ともかく進みづらい構造をしている。
これは防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫である。

思い出して下さいね。
一日目(am 15:15〜)中 にて謎とした
門が狭い理由が、上記のことでした。

*「いの門むとしましたが、Wikipedia 写真では、「にの門」となっています。
ひょっとしたら、わたしの記憶違いかもしれません。
訂正します。

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