メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

独りディナー

12月25日の礼拝 

2015年12月25日 ナビトモブログ記事
テーマ:シニアライフ

クリスマスの、当日礼拝に行ってみた。

クリスマス、というのは本来12月25日なわけだから、夜中のイヴ礼拝はきついので、代わりにキリスト降誕の日に行ってみたのだ。

先日ミニコンサートをした教会である。

行ってみると、ほんの数人の列席者のみであった。

その教会では、既に日曜日にクリスマス礼拝が執り行われていて、今日は通常の、第四金曜日を平日聖餐礼拝日と設定している、というだけだったらしい。


でも多分、私が珍しく参加したので、急きょクリスマス仕様にしてくださったのだと思う。

牧師さんもお説教で、「久々の方や、この日の参加が初めての方もいらしているので、今日は丁度クリスマス当日でもありまますし、あわててろうそくに火を灯しました」とおっしゃっていた。

私は、信者でもないのに、時折参加する際には、玄関口で送り出してくださる牧師さんに、お説教を聞きに伺っています、とご挨拶しているのだ。


今日も、良いお話であった。

アンデルセンの「マッチ売りの少女」の話から繋げた、キリスト降誕の話は、とても身近でわかり易かった。

昨日のイヴ礼拝には、幼稚園の子供たちがたくさん来ていたので、その時なさった説教を、今朝の説教に急きょ組み込まれたらしい。


ろうそくに火を灯す、最初の一本のマッチに例えて、最初にキリストが灯す光が、すべての人の上に灯された、といった話をしていらした。


その先生のお説教は、多くの牧師さんたちの様な、人々を諭すというか、まあパターン化された視線ではない、というのが私の印象なのである。

ご本人が、聖書を熟読されて、その中で出会った文章の解釈を、一度フィードバックした上で、自分の言葉として語りかけていらっしゃるから、私の様な信者ではないものにも、説得力があるのだ。

説教中に、指定された聖書を読んでいると、自分では思いもよらない解釈を、説き起こされることがよくある。

一度、「どの様に、ああいった発想が生まれるのですか?」と失礼ながら伺ったことがある。

すると、即座に「キリストの復活、を信じているから、だと思います」と、言われた。

こんなに、シンプルな即答はあるだろうか。


幸か不幸か、現在の私は、まだ信じるという心境ではない。

でも、重ねてその牧師さんの説教を聞き続けていると、少しずつ心境に変化が起きてくるような気もするのである。

素敵な、クリスマスであった。



拍手する


コメントをするにはログインが必要です

教会には、足を向けたいと思っています

シシーマニアさん

宗教は人によって向き合い方がそれぞれですよね。
素直に入っていける人もたくさんいらっしゃるのに、私はまず否定から出発したので、未だに門の前でうろうろしています。

門前で、はっきり否定してきた両親の家庭に育ったので、家にはキリスト教関係の書物や綺麗なカードなどがたくさんありましたが、いつも自分たちは門外漢なのだという認識はあって・・。

でも西洋志向の強い私は、子供の時から親戚などに連れられて教会へ通い、女性の信者たちがミサの時に被る白いベールに憧れたりして(今もその習慣あります?)それでいて「疎外感」は肌身離さず持ち続けてきた感じもします。

まあ、他人から見たら、「好きにやってくれ!」という感じですね。

2015/12/26 11:33:33

教会に足が向く

彩々さん

これだけで、とても意味があることだと思います。
X'masは教会に入るだけで、心まで暖かくしてくれる
安定した「愛」に包まれている感じです。
それだけで、暖が取れますし(笑)

昨日は暖かいX'masだったので、私にしたら珍しく
片道20分の道を歩いて、教会に行ってきました。

>時折参加する際には、玄関口で送り出してくださる牧師さんに、

シシーさん、この牧師様の当たり前の行為が大切だと
思います。

足が向く事、向かせることが大事だと思います。

私はこの地に来て所属している教会から、ここ3年ほど
すっかり足が遠のいてしまいました。
ミサ中、お説教される神父さまの個性にもよりますが、
シシーさんが書かれているように、教会の神父さまが
扉の外で見送ってくれるだけでいいのです。
今、行っている教会にその習慣(?)がありません。
残念なことです。

ごめんなさい。最後は愚痴になってしまいました。
バチあたるかしら!?(笑)

良いお年を!

2015/12/26 05:03:00

狭き門

シシーマニアさん

師匠、
歌舞伎座に例えてくださって、とてもよくわかりました。
建物に込められた、人々の思いですね。
それが何であるかは、それぞれなのですけれど、建物が抱え続けてきた空気は、魅力があります。

旧約聖書をお読みになったのですか。
私は旧約は挫折して、新約聖書を繰り返して読んでいます。多分に、キリスト教よりなのだと思います。


「曖昧模糊として、都合の良い部分だけを人生に援用出来る、仏教の方が合っているようです」



仏教は、そうなのですか。
西洋志向が強くて、仏教の事は殆ど知りませんでした。

キリスト教は戒律が厳しくて、「神様を忘れれば、楽に生きられるなあ」と思ったのが、中学の時でした。
ちょっと、門が狭いですね。

2015/12/25 21:26:43

キリスト教は、とてもはっきりしていると思います

シシーマニアさん

吾喰楽さん、コメントありがとうございます。
おっしゃる通りで、信じるか否かは、其処ですよね。
それは、簡単に素通りできない壁です。ほかの宗教は殆ど知りませんけれど、信者か否か、の壁はやはりあるのかしら・・・

2015/12/25 21:16:35

空気

パトラッシュさん

私もまた、信者でもないのに、教会は好きです。
旅先で、古い教会を見かけると、見学させてもらいます。
(勝手にです。多くは、人も居ませんから)
礼拝堂の、少し淀んだような、空気が好きです。
多くの信者の、祈りが、そこに堆積しているように、感じられるからです。

その空気たるや、込められた思いは違うにしても、
古い建造物には、必ずあります。
(かつての歌舞伎座にもありました)
(富岡製糸所のようなところにも、ありました)
その空気の匂いを、感じるかどうかは、人それぞれでしょうけれど。

旧約聖書は、一応読みました。
しかし、信仰には至りませんでした。
曽野綾子さんは、「ヨブ記」を読み、ますますその信仰の度を深められたそうですが、
凡人のは、同じヨブ記を読み「とても私には無理だ」と、諦めました。
私のようななまくら人間には、曖昧模糊として、都合の良い部分だけを
人生に援用出来る、仏教の方が合っているようです。

2015/12/25 16:50:48

カトリック教会

吾喰楽さん

こんにちは。

若い頃、何度か日曜日の礼拝に列席したことがあります。
信者ではありません。
シシーマニアさんと、似たスタンスかもしれません。
結局、信者にはなりませんでした。
キリストの復活を、信じられなかったからでしょうか。

2015/12/25 14:40:01

PR







上部へ