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じてんしゃ 

2015年12月20日 ナビトモブログ記事
テーマ:ウィーン

「黄金のアデーレ」の映画を見ながら、久々に思い出した、じてんしゃストーリー。


45年前、初めて見たウィーンの街並み。

これぞヨーロッパといった荘厳な建造物が立ち並び、その伝統ある古き都の偉大さに、若い私は圧倒された。


でも、その頃はガイドブックなどもなかったから、私にとっての情報源は、若いピアニストの書いた「ウィーン日記」ばかりであった。

オペラ座があることは、知っていた。

そして、音楽学校があることも・・。

でも、殆ど何も知らずに出かけて行ったのだ。


なぜなら・・。

ウィーン留学を決めたのは、オーストリア政府給費留学生の試験を受けて、「合格した」と大使館から知らせがあったからだった。

音楽学校の教授たちを、当時の恩師が周りに訊いてくださって、かつての生徒が教えを受けたというディヒラー教授に、手紙を書き、自分が演奏したテープを送ったのだ。

教授と、ウィーンで親しくしていたO先生にお願いして、推薦状も書いて戴いた。


無事、教授からオーケーの手紙をもらい、生活品なども船便で当時留学中の先輩の住所宛に送り、横浜から船に乗って、ソ連経由で汽車や飛行機に乗り継ぐ、JTBの安いチケットも予約した。

ヨーロッパの新学期は10月なので、9月初めに出発する予定であった。


それが、8月半ばになって、今年の留学生最終決定には補欠の人の名前が書かれてあった、と知らせがあったのだった。


出発予定の半月前位の事だった。

「まさに乗りかけた船だな」と父が言い、結局私費留学をすることに決めたのだった。


その時だったと思う。

父が「まったくお前は、じてんしゃだな・・」と言ったのは。


私は、大学の付属音楽高校を受験するために、中学三年になる年に上京したのだった。

それが、不合格。

審査委員長をしていた先生から、一点差だったと聞かされた。

結果的には、三年後に大学に入学したのだが、その三年間は自分なりにずいぶん頑張った。

それこそハングリー精神だったといえる。


高校二年生の時に、音楽コンクールを受けた。

目標としている大学の、在学生や院生がたくさん受けていた。

それも、入選者五人の、次点だった。

翌年に再度挑戦して、入選を果たしたけれど、自分にとっては次点の記憶の方が強く残っている。


そして、二度あることは、三度ある・・。

留学地は、せまいウィーンの事だから、晴れて給費留学生となったピアノ科の彼と、もう一人の他の科で合格した彼とも、出会うことはあった。

大学で同期だった、もう一人の彼は、どうやら私が次点となった裏話を知っている様子だった。


人生、山あり、谷ありである。



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キリギリスではあるのですが。

シシーマニアさん

吾喰楽さん、おはようございます。

考えてみれば、私は「何かに挑戦してこそ人生」と思って生きてきた気がします。結果につながれば勿論ハッピーだけれど、その過程で得るものこそ宝、という考えは、次点者なればこそ得たものかもしれません。
年齢と共に、諦めが肝心。という言葉も覚えてきましたけれど。

2015/12/21 07:19:09

運転より、自転車が好きですね。

シシーマニアさん

彩さん、おはようございます。

私の父は、「後は野となれ山となれ」派でした。
困難に出会った時も、笑い飛ばしてくれたので、娘の私は「トライ・エンド・エラー」派に育ったのかもしれません。
彩さんに言われて初めて、私の人生は、ペダルを漕ぎながら、ゆっくりと、でも立ち止まらずに来たのだとわかりました。

2015/12/21 07:13:57

自転車?

吾喰楽さん

こんばんは。

次点者(自転車操業?)でも、結局、目的は達成しているのは、素晴らしいことですよ。

2015/12/20 19:16:07

過ぎたればこそ

彩々さん

笑える話ですね!?

常に悠然と構えておられるシシーさんだという
印象なんですが…笑いながら読ませていただきました。

必死で自転車を漕ぐお姿が浮かびます。(笑)

2015/12/20 15:41:29

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