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悪い事は、できない・・。 

2015年01月12日 ナビトモブログ記事
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ローマでは翌日、「最後の審判」を見にシスティーナ礼拝堂へ行った。路面電車に乗って行った記憶がある。

電車で、前日の日米家族にばったり会った。

その頃はまだ、ヨーロッパにある絵画の修復が進んでいなかったので、名画のよさを実感するのは中々難しかった。

むしろ、礼拝堂へと昇って行く大理石の階段に、大勢の若者たちが腰かけていた様子が強く印象に残っている。

冒涜という感覚がきっと、違うのかもしれない。


ローマからはまず、ウィーンへ行った。

留学時代の恩師に、レッスンして戴く約束をしていたのだ。

二年ぶりのウィーンだったが、ドイツ語社会の中に比較的すんなりと入っていけたのは、我ながら意外であった。

クラスメートが練習用に自分の部屋のピアノを貸してくれたり、久々に受けたレッスンの後には、先生を囲んで何人かの友達も食事に集まってくれて、楽しい再会もできた

ウィーンから、コンクール開催地のボルツァーノまでは、ザルツブルグで汽車を乗り換えて、夜行列車に乗って行った様に思う。

北イタリアにあるボルツァーノは、現在はどうやら観光地の一つとなっているらしいけれど、当時は村と表現するのがぴったりの小さな田舎町だった。

世界中から若いピアニストの卵たちが集まってきていて、その中にはなんと、大学時代の同級生たちが、それぞれの留学先から三人もやって来たのは、皆「30歳になる前に・・」と、同じことを考えたに違いない。

普段は特に交流が無い相手なのに、最果ての国で思いがけずに出会ったりすると、「オー!」と叫んで抱き合いたい位の気持ちになる。

皆、コンクール前の緊張感で、ピリピリしているし、気弱にもなっているのだ。

もっとも私は、今では主人となった中学のクラスメートと、コンクールが終わり次第パリで落ち合って、そこから暫く気儘な旅行に出かけるつもりであった。

まあ、言ってみれば私にとってのコンクールは、青春時代に区切りをつける一つの儀式でもあったのだ。

本選会に残れば着るのであろう、素敵なイーヴニングドレスなども、持参してこなかったし・・。

思いがけずに出会った友人達と、食事時間には日本語で笑い合い、渓谷のふもとにあるボルツァーノでは、人々はイタリア語と同様にドイツ語も喋るので余り不自由も感じず、まだ辛うじて若かった私は、毎日久々のヨーロッパを堪能していた。

一次予選で弾いたモーツァルトのソナタは、乾燥したヨーロッパの空気の中で響いてくる音色の美しさに、自分ながらちょっと感動した位だった。

私が出場したのは最終日だったので、毎日村の中を散歩しながら時を過ごして、西洋が少しずつ体の中に浸透してくるような気持ちを味わっていた。

パリから受けに来ていた同級生は、彼氏がパリに長かったので、後日パリに着いたら連絡して、色々と穴場を案内してもらう約束も出来上がっていた。

二次予選の日は、公開演奏会なので、出番は夜であった。

私は、取りあえず一次は通過したことを家族に知らせようと、近くの郵便局へ行って国際電話を掛けた。

宿舎になっている学生寮からは、国際電話を掛ける事が出来なかったのだ。

日本では夜の11時くらいの筈なのに、当時同居していた母方の祖母以外に、誰もいなかった。

海外にいると、私の様なぼんやりでも、どこか勘が働くものである。

「そう、良かったね。」と祖母は機械的に言い、「それじゃ、次の演奏が終わったら、又大至急電話して・・」と、今電話中なのに、そう言った。

これは、何か非常事態が起こったのだろう。

祖母のぎこちなさから、演奏前の私には知らせたくない何かが、想像された。

父が亡くなったに違いない、と私は確信した。

祖母の対応を、謎解きの様に考えていくと、行き着くところは父だった。

私は本番の前には、軽く昼寝をする習慣をつけていたけれど、さすがにその日は寝付けなかったなあ。

結局、二次は選には及ばず、イヴニングドレスを買う必要もなく、青春の一頁は不発に終わった。

帰路はパリには寄らず、東京へ直行。


勿論、自分勝手な二人だけの秘密の旅も、夢と消えた・・。

悪い事は出来ないものである。



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