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『剣術修行の廻国旅日記』 読書日記357 

2024年04月11日 ナビトモブログ記事
テーマ:読書日記


永井義男『剣術修行の廻国旅日記』朝日文庫

これはノンフィクションであり、1853年に2年ほどの武者修行に出た青年武士の記録をもとにして著者が読み物としてまとめたものである。なお、本書は2013年8月刊行の朝日選書『剣術修行の旅日記 佐賀藩・葉隠武士の「諸国廻歴日録」を読む』を加筆修正して2023年9月に改題・文庫化したものである。
 
裏表紙には
23歳で鉄人流という二刀流の免許皆伝を授けられた佐賀藩士・牟田文之助。藩から許可得て2年間にわたる武者修行の旅に出た文之助が残した「諸国廻歴日録」を手がかりに江戸時代の武者修行の実態を明らかにする。命がけの武者修行というイメージを覆す1冊!

と書いてある。そして、読んで見れば確かに従来(?)の武者修行とは様変わりしたものが描かれている。
以前に何かで読んだことであるが、武者修行に出るものは手裏剣術を身につけておくことは必須条件だったとか。その意味は路銀が少なくなり泊まる所も無くなった時には、山野に入って鳥獣を捕らえて食べるしか無い、と。その際に手裏剣術が無いと飢え死にする、と。確か、江戸時代初期のはなしだったと思う。

ところが、この本では武者修行に出たのは1853年からの2年間。1853年というのはぺりーが来航した年でこの15年後に明治維新が成立する。言わば、幕末の入り口であり江戸初期とは経済条件が違う。いや、社会的な諸条件が違いすぎるのがイメージが狂う原因であろうと思われる。

なにしろ、牟田文之助の武者修行とは竹刀と防具一式持っての諸藩道場巡り。昼は訪れた道場での合同稽古、夜は酒宴。たまに名所観光もする。修行と言っても、私たちの持つイメージ・・弟子たちは隅に固まって座り、師範代とか道場主などと訪れた修行者との1対1での命や名誉をかけた立会を見守る・・と言ったものではない。他流試合といっても乱取り稽古に混じって打ち合うだけである。多くの道場は修行者を「異風をもたらすもの」として歓迎し(だから夜は酒宴となる)、審判が立ち会うわけでは無いから、明確な勝敗は決定せず、当人たちの思惑で「自分に分があった」とか「相手が強かった」というものである。

「諸国廻歴日録」によると牟田文之助の自己評価は「七・八分は取った」「五分以上であった」というのが大半であり、相手を褒めたのは少ないようだ。完全に自分方が劣っていたというのは2〜3件のみのようで、「楽しく稽古出来た」というのはほぼ五分での時らしい。

とは言え、文之助の剣名はかなり高かったようで、当時の名のある剣術家のほとんど(およそ30人…江戸時代を通じての剣豪800人余りを記した『全国諸藩剣豪人名辞典』に名が載っている中で同時代人)と立ち会うかそこまでいたらずとも実際に会って談話している。もちろん、この人名辞典の中に文之助自身も収録されている。

最後になったが、牟田文之助が遣った鉄人流とは二刀流の剣法であり、当時もその珍しさから相手としてはやりにくかったのであろう。
(2024年3月17日読了)



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