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敏洋’s 昭和の恋物語り
水たまりの中の青空 (去れば、去るとき、:四)
2021年06月05日
テーマ:テーマ無し
そして大女将との約束の一年が近づいて参りました。
瑞祥苑からお暇を頂くために、どう切り出して良いものやらと考えあぐねていた時でございます。
「光子さん、ちょっといらっしゃい」と、女将から呼ばれました。
お客さまをお迎えする前の時間帯でございます。仲居一同、忙しく準備をしております。
そんな時の声かけに、なにか粗相をしたのかと気になりました。
普段の穏やかな表情ではなく、口をへの字に結ばれて口角も下がり気味の不機嫌さの漂うお顔も気になるところです。
女将の部屋に入るなり、「申し訳ございません。なにか粗相をしておりましたらお詫び致します」と、畳に頭をこすりつけました。
ところが、急に女将が笑い出されまして。初めてのことでございます。
女将の笑い声など、ついぞ聞いたことがありません。
「頭をお上げなさい。そうじゃないの」。
いつもの穏やかなお顔に戻られ、いつもの小声で仰います。
「明水館の女将から、手紙を頂きました。あなた、若女将だったのね。
でしょうね、そうだと分かれば納得のいくことです。
K先生から『一年だけ頼むよ。仕込んでくれ』と頼まれましたが、そうだったのね」。
カラカラと気持ちの良いお声で笑い続けられます。
わたくしとしては、なんとお答えすれば良いのか分からず、またどこまでK先生がお話になっているのか――三水館でのこともお話しされたのか、気になるところでございます。
ですが杞憂に終わりました。詳しいことは一切仰らずに、ただ「よろしく頼むよ」ということだけのようでした。
ひょっとしましたら、事のすべてを飲み込みつつも素知らぬ顔をしてみえたのかもしれませんが。
なんにしましても、女将の赦しを頂きました。
「いつでもいいのよ」と仰って頂きましだが、夜行列車で戻ることと致しました。
皆さんが忙しく働いている時間帯では申し訳のないことでことでございますし。
申し訳ございません、ごまかしはやめにいたしましょう。
本音を申しますと、そっと誰にも知られずに出たいのでございます。
早朝に熱海駅に降り立ちました。顔を隠すように改札を出ますと、思わず立ち止まってしまいました。
駅前に立ち並びますお店のそれぞれが懐かしく感じられ、勝手に涙腺が緩んでしまいました。
すぐにも立ち去りたいのでございます。どこで知り合いと出くわすかもしれません。
この時間にお客さまをお迎えする旅館などあるはずもないのに、この時間に駅前にまで出張る者がいるはずもございませんのに、不安で不安でたまらないのでございます。
大女将からは「速く帰ってらっしゃい」と暖かい手紙をいただいてます。
ですが、明水館に付いた途端に、大目玉を食らうのではないかと、足が震えます。
一歩を踏み出そうとするのでございますが、中々動いてくれません。
どなたかに背中をトンと押して頂きたいのです。
「さあ、行きますよ」。そんな声を聞きたいのでございます。
おかしゅうございますか。わたくしらしくないと、思われますか。
確かに、自分でもそう思います。こんな小心者では、明水館の女将など務まるまいと思ってしまいます。
いっそこのまま戻ろうか、三水閣に戻って気ままに気楽に暮らそうか、そんな思いにも囚われてしまいます。
汽笛が聞こえて参ります、そして潮風が呼応するように匂って参りました。
明水館の庭に咲く種々雑多な草花の匂いも感じられます。
思い出します。長い廊下のぞうきんがけでのあかぎれを思い出します。
手にハアハアと息を吹きかけたことが思い出されます。
夜になると軟膏を塗っては、ヒリヒリとした痛みに思わず涙ぐんだこともございました。
さあ、いつまでもここでグズグズしているわけにはまいりません。
人の流れも少しずつ増え始めた気がいたします。
あらあら、駅員さんが挨拶してくださっています。わたくしのことをご存じのようですわ。
お日さまもしっかりとわたくしを照らしてくださいます。
一歩、歩を進めなさいと、その暖かい日差しを与えてくださいます。
参りましょう、明水館へ。
と思うのですが、またまた弱気の虫が。
お宮の松が見えてまいりましたら、途端に足が重くなりました。
今日はやめて明日にしようかしら、などと考えてしまいました。
分かっております、今日を明日に延ばしたからといって、明日になればもう一日と考えることでしょう。
そうだわ、裏口からこっそりと入り、素知らぬ顔でお客さまをお迎えする……。
お客さまの前ならば、いかに大女将の怒りが激しくとも。そんなことも考えるのでございます。
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