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敏洋’s 昭和の恋物語り
水たまりの中の青空 (大女将の引退:二)
2021年05月11日
テーマ:テーマ無し
生前の栄三の希望もあり、近親者だけの質素な葬儀が執り行われた。
その後、多くの旅館関係者そして組合関係者たちが、お焼香に訪れた。
「惜しい人を亡くしました」。「相談に乗ってもらいました」。
心底からのお悔やみの言葉が続き、栄三の人望の高さに珠恵が一番に驚かされた。
しばらくの間、珠恵が休息を取ることになった。
十日ほど経ったときだ。
それまでの憔悴しきった珠恵ではなく、往年の珠恵を思わせる凜とした珠恵が現れた。
「おお、大女将が戻られた」と感嘆と歓迎の気持ちがこもった声が挙がったが、そこで語られた言葉は意外なものだった。
「わたしは、ひと月後に引退します。
ついては、番頭さんと板長さんにも、今までご苦労様でしたと伝えました。
お二人も、もう良いお年です。夫のようになられては困りますから、奥様の元にお返しします。
若女将には面倒をかけますが、よろしくお願いしますよ。今
日から、実質的な女将ですからね。しっかりと明水館を切り盛りして盛り立てて頂戴」
光子には事前に伝えていたらしく、驚きの表情はなかった――というより、一切の感情を押し殺しているようで――まるで能面のようであった。
光子にしてみれば緊張の極にあり、その責任の重さに押しつぶされそうになっていた。
昨夜に引退を告げられたのだが、珠恵の吹っ切れたような達観した表情が、光子には夜叉のように感じられていた。
その直前に、権左衛門がお悔やみの言葉をと訪れたのだが、「先生、ちょっと……」と二人だけの密談に入った。
まさかその折に引退の相談をしていたとは、思いも寄らぬ事だった。
「若女将も冷たいわね」。「ひと言あっても良さそうなものなのに」。そんな声が、古参の仲居たちからこぼれた。
そして「大女将のいない名水館では働けません」という仲居たちが5人ほど現れた。
光子は特段引き留めるような声はかけずに、形の上では円満に離れることになった。
しかしその実は、光子の強い意向が働いた。
仲居頭の豊子も、年齢の問題と言うことで身を引くことになった。
もう一人、光子の一年後輩に当たる仲居に対して、豊子が「あなたは仲居頭として光子さんを支えてほしいものね」と残るように諭された。
しかし、光子の「ごくろうさまでした」という言葉で引導を渡された。
結果的に珠恵の引退によって、煙たい存在となっていた仲居たち全員が、名水館を去ることになった。
若女将の策略じゃないのかという噂が一気に立ち、外部の者からは「乗っ取られたな」という声が聞こえ始めた。
ひと月も経たぬうちに代わりの番頭そして板長が他県からやってきたことが、噂話の信憑性を高めた。
板長になる人物が全国的に名の通った料理人だったために、あっという間に広まった。
「無理矢理引っ張ったようだ」。「番頭にしても強引だったらしい」。「支度金でもはずんだのか?」。「二人とも男女関係に持ち込んだようだ」。
口さがない者たちによって、光子の人格を貶めるような話も出た。
さすがに「そこまでは……」と否定されはしたが、あまりの手際の良さに、一部の間ではくすぶり続けることになった。
番頭が去ることが決まった折に、清二が何らかの形で経営に携わることになると思われたが、「下足番すらまともにできない者には任せられません」と、約束は反故にされた。
光子が気弱になった珠恵を責め立てたのだろうと、皆が推察した。
しかしその実は、清二からの申し出だった。
光子に対する珠恵の若女将教育だと称する、いじめに近い命令罵詈雑言を間近で見るに付け、恐れをなしたのだ。
「大女将、わたしにはむりなようです。事務方の官吏もできませんし、ましてや番頭なんてとてもとても」
と、畳に頭をこすりつけて「許してください。どこか小部屋で結構です、この旅館にだけは置いてください」と、懇願した。
このことがどこから漏れたのか、外部に知れ渡ったが、このことも光子の清二に対する脅しに近いものだ、策略の一つに過ぎないと、口の端に乗った。
事ほど左様に、全てが光子の企みとして吹聴されるに至った。
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