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敏洋’s 昭和の恋物語り
水たまりの中の青空 (大女将の引退:一)
2021年05月08日
テーマ:テーマ無し
十年近く経ったたとき、何の前触れもなく栄三が倒れた。脳卒中だった。
すぐに往診で医師が駆けつけたけれども、自宅での治療は無理だと病院に搬送された。
「暫く前に頭が痛いと仰ってました」。「めまいがすると言われていました」。「手足がしびれると聞きました」。
一つ一つの症状が軽くすぐに収まってしまったが為に、珠恵に伝えられることはなかった。
「若女将の教育がお忙しそうでしたので」と、異口同音に皆が言った。
「それに旦那さんは冗談がお好きで、いっつもわたしたちを笑わせてくださいましたので……」と、消え入るような声もあった。
そのことが同業者の間に知られると、長年の不平不満がついに爆発したのだと周囲からは受け止められた。
「そうね、わたしのせいですね。わたしが夫をないがしろろにしてきたせいですね」。
憔悴しきった顔でこぼす姿は、大女将の珠恵ではなく、一人の年老いた老婆の姿だった。
40年以上の間、先代女将の後を継いで名水館を支えてきた。
家庭を持つことを諦めて、女を捨てて、夫である栄三を単なる同居人のごときに扱ってきた末のことだ。
(後悔はしていません)。口癖だったが、光子という後継者を得てこの10年間を教育という名前の下で、しごき抜いてきた。
光子も生来の負けん気で持って耐えてきたけども、逆の意味で、珠恵の覚悟が試された時でもあった。
光子を下働き同様に扱いながら、人に隠れて涙を拭う姿を見たときには(実の娘ならば、これほどまでのことをしたろうか)と己に問いかける珠恵だった。
自身が求めても得られなかった娘、冬の最中に水ごりをしてみたりお百度参りの真似ごとをした日々が思い出される。
それでも授からなかった。それをこの女は、本人が求めてはいなかったとはいえ、いとも簡単に天から授かったのだ。
憎しみの対象ではあり得ないことなのに、いやかえって感謝すべき事なのに、だ。
己の実子ではない清二という男との間に生まれ出た、孫という名の娘。
孫という名の跡取り娘をあやす光子を見るたびに、怒りの気持ちが湧いてくることもあった。
何より、栄三の目を細めていることが、許せなかった。
(愛してなどいない)はずの栄三だった。
一段下に見て、常に種馬ととして見下していた男だ。
時折感じさせる優しさにも、その裏に隠れている策略を警戒し続けた珠恵だった。
それが、死に瀕している今になって、これほどに愛おしく感じる――感じられるとは、信じられない、思いも付かないことだった。
己自身が信じられない。夫婦生活など送ったはずがない。単なる同居人、だったのに……。
床に伏せったまま、珠恵のさしだした手を力ない手ながらもしっかりと握りしめて、今弱々しい声で、何かを伝えようと必死に喉から声を絞り出そうとしている。
耳を栄三の口に寄せて、何とか聞き取ろうとする珠恵の姿は、見る者全ての涙を誘った。
「あんたのおかげで良い思いをさせてもらったよ。
若い頃には恨みごころを持ったけれども、清二を引き取ってくれてありがとう。
跡取りとして認めてくれてありがとう。
あんたとはほんとの夫婦にはなれなかったけれども、この十年、大女将となってからは、わたしも組合長にまでならせてもらえて、ありがたいことだ。
あんたには感謝のことばしかないよ」
何度も「もういいですから、お休みになってくださいな」と言っても、途切れ途切れながらも、他の者には分からぬろれつの回らぬ声だったけれども、珠恵にはしっかりと聞き取ることが出来た。
組合長はおろか、最低位の理事扱いでしかなかった栄三が、今は組合長にまで昇りつめている。
混濁した意識の中で、栄三の夢が叶っているらしい。
初めて、珠恵がはっきりとした声で、大きな泣き声を上げた。
(こんなことを言って、またわたしを騙そうとしているのね)。
そんな思いも湧いてくる珠恵で、それがいやでいやで、大声で泣くことで、そんな毒気を吐き出したかった。
突然に、珠恵の手を握る栄三の手から力が抜けた。
と同時に、ひと筋の涙が頬を流れ出た。しかし安らかな笑顔を称えている。
いま、栄三はこの世を旅立った。
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