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敏洋’s 昭和の恋物語り
水たまりの中の青空 (名水館の女将、珠恵)
2021年05月06日
テーマ:テーマ無し
光子にとって、寝耳に水のことだった。事前に告げられたことではなかった。
えっ? という表情――口をぽかんと開けて、目を大きく見開き――で、思わず珠恵を見た。
(そんな! 清二なんかと夫婦だなんて、絶対にいやだ。こんな男、こんな卑劣な男となんて、絶対にいや)。
しかし、若女将にするという珠恵の言葉が、グルグルと光子の仲で渦巻いている。
夢にも思わなかった「若女将」という言葉が、こんなにも魅力的なものだとは、今の今まで思いもしなかった。
と同時に、大きな不安が襲ってきた。
(こんな自分で務まるのか)。しかしそんな思いはすぐに消えた。
(そんなことじゃない。誰が付いてくるの?)。(みんなに馬鹿にされている今の自分に、一体誰が……)。
(女将さんの後ろ盾があるわ)。(表面だってはそうでしょうけど、裏に回れば馬鹿にするに決まってる)。
(あたしと清二が、めおとだって!)。(冗談じゃない! あんな優柔不断な男なんか!)。
(威勢の良いことを言ったかと思うと、ちょっと叱られたらすぐにいじけちゃって)。
思いが錯綜する。
あまりに一どきに色々のことを考えすぎて、頭がクラクラする。(そう言えば、誰なの? あたしに何か言ってるのは、誰?)。
「光子さん。どうしたの? 顔色が悪いわよ。気分でも悪いの? すぐに部屋に戻りなさい。
いえ、あたしの女将の部屋にです」。
珠恵の声が大広間に響き渡り、今、珠恵が口にした「光子を若女将に」という言葉が現実のものなのだと、全員が意識させられた。
仲居たちの間で「本気なの、女将さん」。「信じられない」。「名水館の名が泣くわ」。「良い笑いものよ」。
そんな声があちこちで聞かれた。
「光子に指図されるんですか?」。「あれこれ口出しさせないでくださいよ」。板長に詰め寄る板前たちがいた。
「知ってたんですか、板長」。「黙ってるなんて、ちょっとひどすぎませんか」。
ふたりに仲居頭の豊子が詰め寄った。
「いや、わたしも初耳だ。板長だって知らなかったはずだ」。絞り出すように番頭が口を開いた。
(事前に言ってもらえれば)と、ほぞをかむ番頭だったが、(まさか……)と栄三を睨み付けた。
しかし栄三もまた、心底驚いた様子を見せている。
「突然のことに、不審な思いでいると思います」。
光子が大広間を出たことを見届けた珠恵が再度声を上げた。
「わたしにしても、苦渋の決断です。
まさか、あの光子を若女将にするなんてことを考えるとは、今日の今日まで思いもしませんでした。
いえ、今日じゃないわね、昨日のことです。
皆さんも承知の通り、昨日、権左衛門さんが訪ねてこられました。
そして『人倫にもとるようなことはしないように』と釘を刺されました。
それがどういう意味かは、その言葉で何を止められたかは申し上げることは出来ません。
ただ言えることは、これから光子さんを、若女将として恥ずかしくない者にするために、指導していきます。
ですので、これ以降は陰口は禁止します」。
女将である珠恵の言葉は絶対である。陰口禁止と言われれば、ひと言でも光子に対する不満を口にすれば、即刻名水館を追い出されてしまう。
そして追い出されるということは、この町、熱海では働けないということだ。
いや近隣の旅館でも、ということだ。
(おかしい、実におかしい。
先生の話では、光子のことに関しては話さなかったというじゃないか。
先生の体調への気遣いやら世間話に終始したというじゃないか。
先生に口止め? いやいや、そんな秘密を持たないからこそ、皆に先生先生と崇められているんだ。
それじゃ、一体誰が?)。どんなに考えても、栄三には理解できない。
その夜に、番頭やら板長、果ては仲居頭の豊子にまで問いただされた。
栄三の「策略がうまくいきましたね」と、嫌みをたらたらと聞かされたのだ。
「まあしかし、案外名案かもしれませんね」と、結局の所三人が三人、納得した。
そして先生の諭しの言葉から決断をしたのならば、世間体も悪くないことですし、ということになった。
栄三が一人になったとき、やっと珠恵の真意に気がついた。
(珠恵は決めていたのか、先生を利用したのか)。
(恐ろしい女だ、珠恵は。いや、だからこそ、名水館の女将なのか)。
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