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年賀状片付けに寄せて (1/21) 

2021年01月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

 医療・介護等々、最前線で働いている皆さんに感謝し、さらなる負担をかけないよう努力します。
 そろそろ年賀状に関わるあれこれを一段落させようと、軽く読み直しなどしていたら、すっかりはまりました。
 年賀状の意味ですが、人様の考えは尊重しますが、相手によっては年に1度、生存を確認しあう意味も含め、私にとっては大切なことです。高齢などを理由に、「年賀状をやめます」の葉書をもらうようになりましたが、寂しいものです。
 私からやめることは絶対にありませんが、来ない方には、ご迷惑でしょうから出しません。こない理由は・やめた(全員に対してか、私個人に対してかはわからない)・うっかりもれた・郵便事故・亡くなったか、病気や様々な事情で書けなかった等々あると思います。だから、1年では判断しません。
 父の版画年賀状を受け継ぐなどとかっこつけていますが、私の1年をイメージできるような版画をして、ここ何年かは、目いっぱい自分の近況を書くことにしました。わかってもらいたい人なんです。添え書きに「お元気ですか?」と書いてくださる人がけっこういますが、あたしゃ毎年ガッツリ書いてるでしょうが、それよりあなたはどうなの?という気持ちになります。
 だから、自分のことを書いてくれている年賀状は、とても嬉しいです。昨日整理しながら、かつての音楽仲間でピアノの名手が、精力的にピノをひいている様子を書いてくれていて、その気持ちが手書きの文章からほとばしり出ていて、思わず電話をしました。犬の散歩に出る寸前だったという彼女は、たいそう驚いていましたが、会っていない時間を一気にぶっ飛ばし、お互いばあさんになっているのも忘れて、犬には悪いけれど、おしゃべりをしました。
 電話を切ると、何たる偶然、別の古い音友から、年賀状整理していて読み直し、メールしたくなったと。将来を考えて、ちょっと落ち込んでいる様子も見えたので、その人とも長電話しました。話しているうちに、元気になってくれた気がします。そんなきっかけをくれる年賀状も、捨てたものではないでしょう。できれば定型文ではなく、プラスαがあると良いですね。写真は、版画や手書きや近況報告付き等、私基準でセレクトした年賀状たちです。
 「おちょやん」の高城百合子には、特別モデルはいないそうですが、一説には岡田嘉子じゃないかと。なるほどね、だとしたらワクワクしますね。
 コロナだろうとなかろうと、私のスケジュールへけっこういっぱいですが、今週はヨガのみ。こんな週もあるんだってことで、行って来ます。
 こんなにちゃんと考えることができるのに、全くダメな部分との落差が信じられません。良かったら ?More 読んで下さい。僕は演劇人なので、演劇人についてこの観点から書く。
演劇人はほとんどリベラル=平等を求めている。左翼だから演劇をするのか、演劇をしてるから左翼になるのか知らんけど。しかしそれは当たり前である。まず、芸術は社会的自由がないと成り立たないからそこは必須。とはいえ、経済的自由があって自由競争なら良いかというと、そんなことはない。そもそも芸術が、経営として成り立つことはない。よって社会的自由・経済統制になるしかない(もちろん、レネ・リーフェンシュタールのような才能があればファシズムに協力する芸術も可能ではあるが)
と、いうより売れれば売れるほど左傾化した方が良い。え、なんで売れた後の方が自由競争になっていいんじゃないの?て思うかもしれないけども、むしろ全く売れる前はネオリベの方がいいのだ。実績がないうちは、統制された経済の中では分前がこない、実績がないから。どの道食えないならなら、自由競争で一発逆転、上を引き摺り下ろす方がまだ行ける、事実、私も例えば「無料で使える京都芸術センター使用権に落選している最中は、使い続けてる団体は既得権益だ。もっと自由競争せよ」と言っていた。しかし、安定して芸セン使用権が付与されて以降は、もうすっかり市に統制されている(もちろん、表現は統制されてないけど、経済的には)
そして、困ったことに演劇を続けるために、劇団という団体を運営していくとさらに、劇団内では社会的自由を制限する、保守主義に近い方がやりやすくなる。演劇ってのは、めちゃくちゃ恐ろしいものである。なぜなら、役者がその日来なかったら、常にダブルキャスト以上してなければ、どうにもならないからである。
これを成立させるためには二つの解決方法がある。莫大な違約金を設定する( 裏切る方が損)という方法、そして「仲間を大切にする」「親の死に目に会えなくても舞台には立つ」という仁義に訴える方法だ。これはもう保守主義(ファシズムでもいいけど)でしかできないことだ。例えば、身勝手な降板をする役者は、直接被害にあっていない劇団でもカルテルを組んで干すなんてことはあって、外目からは評判が悪いが(ヤクザの破門見たいで)、そうしなきゃ厳しいのである。
まして、演劇人は酒好き、飲み会好きで、内部の人間の仁義を優先するのはもう保守も保守である。だから左翼のくせにパワハラセクハラも多いし、それを完全にコントロールしているのは、怪物・平田オリザくらいである。で、COVID-19に対してどう対応するかである。保守主義に基づいて中止にする場合、それはどこの範囲を保守するかという話になってくる。保守は、身内をどの範囲まで指定して、その中で誰に犠牲を払ってもらいつつもどの範囲まで守るかである。それが、劇団や仲の良いスタッフであれば公演は強行すべきだし、演劇界全体なら微妙な判断になってくる。
個々の利益と全体の利益が一致しないと時にどう対処するか、というのは人間じゃなきゃ簡単だ。鳥インフルエンザや口蹄疫が発生したら、その地域の鶏や牛は、かかってようがかかってなかろうがみんな殺処分だ。これにより鶏や牛という全体の利益は守られる。が、個々の鶏や個々の牛は、「俺たちの犠牲によって、鶏や牛という種族が絶滅しないんだから本望だぜ」と考えられるほどの知能はないので、たまったもんじゃない(もっと言えば、鶏や牛は「自らの肉を人間が好きな味に進化させたから、これだけ全体として繁栄した」と言えるけど、個々の食われる個体からしたらたまったもんじゃない)。とはいえ、いくら酷いファシズム国家でも人間に対しては感染者根絶やしは(多分)やれない。「個々の公演をやること」に関してはやった方がいいに決まってるのだ。実際、ほぼクラスターなんて起きないんだから。しかし、それを「演劇界全体」で考えたら、緊急事態宣言時に予定していた劇団だけ、たまたま鳥インフルエンザにかかった鶏のように運が悪かったとやめてもらう方がよくなってしまう。これは、演劇界という全体を保守するための「保守主義」の考えだ。
じゃあ、やはり経済統制=補償を要求した上での中止になるけども、それは行き届いてない。そして、行き届いていたとしても、お金で自由を売って良いのかというところまで考えるところまで出てくる。なぜかというと、もうこれは表現する者として、続行にしろ中止にしろ、新たに企画するにしろどんな結論を出すにしろ、社会を語らないとなんとなく格好悪いからである。本当は別に「やりたいからやる、怖いからやらん」でも良いんだけども、なんか大義名分がないとカッコ悪いからだ。
例えば、才能のあるお笑い人で言うと、若いうちは「笑えればなんでも良い」というネオリベ的だった松本人志は徒党を組み仁義をきる保守主義者になったし、太田光は平等を重んじるリベラルになり、その立場からcovid-19にも物申している。
その面で言うと僕は三谷幸喜はすごいと思う。三谷さんは思想がない。思想がないといのは、中庸という意味ではない。社会を語っていない。もちろん、笑いについてはこだわりは深い。しかし、コラムを読んでも社会がない、時事ネタを書いていることはあるけども、そこに思想がない。面倒だから中立を保っているというより、社会情勢を楽しんでるけど考えが感じられない。
これは貶してるんじゃなく、すごいと思う。だってネオリベだって竹中平蔵もホリエモンも、「社会を語り、ネオリベに都合の良い社会に変えようとしている」、しかし三谷さんにはそれすらない。ただただ、作品を作っている。普通、人間自分の都合の良いように社会を変えたいと思うし、そうじゃなくてもいい歳になれば自分以外の社会を語りたくなるものだ。並の人間が、自分にはそれだけの力がないからと、社会の流れに身を任せると言うならよくある話だ。しかし、三谷さんは変える力がある、あるのにその力を行使しない。その欲求がないというのはすごい、本当に自分とせいぜい自分の近しい人と作品にしか興味がない。だいたい、「自分は仲良しの人のために脚本を書いてるから、他人に上演して欲しくない」と戯曲を出版しない人である。三谷幸喜ほどの才能があれば、若手作家の教材として戯曲を出版するのは、社会的責務とすら言えるのに、それをしない。こんな軽薄(褒め言葉)な人はいない、超人だと思う。まじですごい。
そんな三谷さんですら、「大地」ではCOVID-19の間に演劇をなんてことを語っていた。あの三谷さんですら社会を語るほどの事態なのか。やっぱりただ淡々と自分と近い人のために作品を作るのか。見逃せないところだ。
僕は弱い人間だからこれからも社会を語る。

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