トーマス18号

キリスト教はなぜ禁教となったか 

2019年05月13日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

5月の連休中、「明治日本の産業革命遺産」と「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産がある長崎は大賑わいだったようだが、『なぜ、キリスト教がそこまで弾圧されたのか』という疑問を持つ人は不思議なくらい居ない。

日本におけるキリスト教布教は、1549年、イエズス会宣教師であったフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着したことから始まる。
豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発したのは1587年だが、それ以前は信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対して南蛮貿易を行なうために好意的だった。

 この頃、西欧諸国は大航海時代を迎え、植民地を求めて世界の未開地に触手を伸ばしていた。
始めに宣教師を送りその国をキリスト教化し、次に軍隊(十字軍)を送って征服する、という手法を日本に対しても行なおうとしたのだが、それに気付いたのが豊臣秀吉だった。

 そのきっかけはポルトガル人(宣教師)が日本人を奴隷としてインド・その他の遠隔地に売っていたのを知ったからである。
 当時(戦国時代)、キリシタン大名(大村純忠・有馬晴信・高山右近ら)たちが火薬・鉄砲欲しさに日本娘と交換(硝石一樽:50人)していたのを知った秀吉は烈火の如く怒ったという。※硝石とは火薬の材料
 更にキリシタン大名たちはイエズス会の気を引くため競って自分の領地(の一部)をローマ教会に寄進していた。
これは十字軍が侵攻してくる際の足掛かりを提供することに他ならない。
つまり、豊臣秀吉や徳川家康の『禁教』の判断があったから日本は他の東アジアの国々のように西欧諸国の植民地にならずに済んだ、と言える。

 天正10(1582)年、長崎・大村藩から伊東マンショら四少年からなる天正少年使節団がローマ法王に謁見したが、その報告書に「・・・ヨーロッパ各地で50万という日本女性が奴隷らの国にまで転売されていく・・・」とある。
50万という数字の真偽はわからないがそれなりの数であった事は確かだろう。

 キリスト教弾圧は日本史に残る哀しい事実だが、ポルトガル人(宣教師)が日本人を奴隷として売りさばいていた事やキリシタン大名たちがイエズス会の指示で日本古来の神杜・仏閣を焼き払い、領民にキリシタン改教を強要した、というようなキリスト教の裏の史実にも目を向けて欲しいものだ。
とかく日本では西洋の文化・歴史やキリスト教関連の負の部分は語られない事実が多い。
これもGHQ以来の洗脳教育なのか・・・。



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ほっかむり

どかちんさん

あの阿保タヌキもカトリックなのでこのような史実には全くほっかむりですね。

2019/05/13 09:07:06

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