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独りディナー
「日本が私を捨てたのです」
2016年10月18日
テーマ:美術
ポーラ美術館で、私はシャガールと出会ったのが強烈で、すっかり忘れて居ていたのだが・・。
そこで、藤田嗣治の絵にも出会ったのだった。
ミルフィーユさんのブログを拝読して、思い出した。
そういえば、彼の絵の、絵葉書も買ったのだった。
でも私には、その時に見た、フジタの戦争の大作ばかりが心に残ったので、ちょっと自分の中で、封印していたところがある。
今、Wikiを見ると、彼は軍医の息子だった事が解る。
そういった背景もあって、あのような作品を残したのかも知れない。
でも、第二次大戦後、その経歴がフジタを追い詰めたであろう事は、容易に想像できるのだ。
故郷から離れて、人生を送ると言うことは、想像に絶することではないだろうか・・。
私は、海外に住んでいたのはたかだか数年だけれど、それでもいつも、自分の基盤が故国にあることを意識して生活をしていた。
パリという場所は、画家にとって、ユートピアの様な存在かも知れない。
でも。
スペイン人のピカソとか、ロシア系ユダヤ人のシャガールにとってのパリと。
東洋人である、フジタにとってのパリは、根源的に大きな相違がある。
つまり、フジタがどんなにパリに溶け込もうと、その外貌は変わらない、と言うことだ。
カナダに住んでいた頃、親しくしていた日系三世の人が、買い物に連れて行ってくれた事があった。
向こうは、生粋のカナダ人なのに、お店の人の扱いは、私と同様に外国人に対する対応であった。
「いつも、どこから来たのですか、と訊かれるのよ。
私は、カナダで生まれました、あなたと全く同じ様に!
と言いたくなるけれど、私の風貌は日本人の儘だから・・」
と言っていた言葉が、頭から離れない。
レオナール・フジタが、体験したであろう様々な場面が、頭をよぎる。
5回結婚した、最後の夫人が日本女性だった、と言うのですら、私には寂しく響く。
「私が日本を捨てたのでは無く、日本が私を捨てたのです」という言葉が、重く伝わるほどに、フジタは、自分のアイデンティティーを、パリで築き上げた、とも言えると思う。
上記のような感慨は、殆どの移住した日本人の言葉のようにも思えるけれど、それがフジタだからこそ、公に言えたのだ、と私は思う。
フジタの業績は、はっきりと自分の思いを表明できるほどに、偉大なものだったのだ。
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藤田嗣治、再考という感じでした
ミルさん、コメントありがとうございます。
>西洋画でもない、日本画でもない、藤田の絵だ、
これは、実にフジタの本質を表している言葉に思えます。
フジタの肖像画を見ると、誰もが二度見する様な風貌ですよね。
異邦人として認識されるのでは無く、フジタという唯一無二の画家としての存在なんだ、という自負心が伝わってきます。
ずっと私は、フジタに違和感を持って居ました。
でもミルさんのお陰で、色々考える機会を与えて貰って、「フジタの人生」を体験した思いです。
自分の年齢も影響しているでしょうけれどね。
2016/10/20 10:27:17
藤田嗣治という画家
シシーさん、こんばんは。
海外で実際に暮らした経験のある方の感想は、また実感が籠っていますね。
フジタは、きっと日本の規格に収まり切らないスケールと個性を、持ち合わせていたのだと思います。
先日、川村美術館で見た彼の絵は、猫と女性の絵(ライトで洒落た絵)ばかりでは無く、多岐にわたる題材を見ることが出来、私自身も目を開かれる思いでした。
彼が、日本にもしいたら、現代浮世絵風のジャンルや、独自の「ニッポン」のジャンルを開いたのではないだろうか、そんな感想も持ちました。
西洋画でもない、日本画でもない、藤田の絵だ、と彼が言った言葉が、彼のアイディンティティーだったと感じます。
シシーさんがいつも仰る、背景を知ることで、より深く広く感じ取れるのですね。
今回の美術館散歩?は収穫大でした。
嬉しいチェーンブログを、有難うございました。
2016/10/19 18:17:00
葦さん。
コメントありがとうございました。
私の憶測に賛同下さってありがとうございました。
著名人だからこそ、勝手に心象風景を描くことができますね。
あちらには、ご迷惑な話でしょうけれど・・。
2016/10/19 10:18:30
日本人としてのアイデンティティ
藤田は他の画家と同じように戦争協力をしたのですが、戦後、他の画家たちが藤田をスケープゴートにしたのですね。だから藤田は日本に居れなくなって日本を飛び出さざるを得なかった。藤田はやはり日本で日本人として死にたかったのだろうと思います。それにしても藤田の「日本が私を捨てたのです」という言葉は重い。戦争から学ぶことは多いけれど藤田の戦後も忘れてはいけません。
2016/10/18 20:44:46