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パトラッシュが駆ける!

少年と母 

2016年06月04日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

昔、道路の端に、側溝というものがあった。
いわゆる「どぶ」であり、各家庭の生活排水が流れていた。
私のところの例では、昭和四十年代前半まで存在し、
下水が敷設されると共に、その姿を消している。

私は当時、金物店を営んでいた。
ある時、客の小学生が、店を出たところで、硬貨を落とした。
側溝には、コンクリート製の蓋が被せてあるのだが、そこに隙間があった。
不運であった。
落ちた硬貨は、その隙間に吸い込まれるように、消えてしまった。
多分百円硬貨だったと思われる。
少年は諦め、帰って行った。

その一時間後であった。
少年が母親と共に現れた。
母親は、ビニールの手袋をし、柄杓とザルを持っていた。
私に向かい、側溝のふたを持ち上げ、少しずらしてくれませんかと頼んだ。

溝の底の汚泥を、柄杓でもって掬い、ざるに移した。
水中でそれを揺すると、汚泥は流れ、固形物だけが残る。
なるほど、考えたものだ。
それを繰り返すこと数度、ざるの中に、白く光るものあった。
首尾よく、硬貨を回収した母子は、礼を言い帰って行った。

当時の百円は、今よりずっと価値がある。
それにしても、百円は百円だ。
この執念に、私はただ、驚くよりなかった。

鎌倉時代の役人、青砥左衛門藤綱はある夜、十文の銭を川に落とした。
少額のこともあり、普通なら諦めるところだ。
しかし、彼は断固として、人足を雇い、松明を買い、その灯りでもって、十文を探し出した。
その費用が五十文かかった。
どう考えても、割に合わない。
しかし彼は平然として言った。

「落とした銭を、そのまま放置すれば、 銭は永久に失われてしまう。
しかし、 自分の費やした五十文は、商人や人足の懐に入ったので、
合計六十文は、一文も失われずに天下の財として残っている」
この大局観に、周囲の者は皆、感心した。
と伝えられている。

件の母親も、きっとこの故事を知っていたに違いない。
それを基に、息子に対し、無言の金銭教育を行ったのではあるまいか。
硬貨を拾う、自分の背中を、見せたかったのではないか。

 * * *

舛添都知事の、昔の友人が、テレビのインタビューの中で語っていた。
多分、高校時代の級友と思われる。
ある時、仲間の一人が、紙幣を一枚、トイレに落とした。
水洗ではなく、汲み取りの時代であろう。

それを伝え聞いた者、誰もが尻込みする中で、舛添少年だけが違った。
敢然とそれを拾いに出たそうだ。
どんな道具を用い、どういう風に行ったかは知らない。
ともかくも、回収することに成功した。
滅多にないことだから、友人もそのことを覚えていたのだろう。
さながら、硬貨を落した少年を、私が覚えていたようにである。

この話を聞き、私はまたもや青砥藤綱を思い出した。
舛添少年もまた、この故事を知っていたのではあるまいか。
この話、本来なら美談となるはずだ。
しかしながら今や、彼の吝嗇を象徴する一例として、
世上の笑いを誘う如くに、伝えられている。
身から出た錆かもしれない。
彼の多方面にわたる不徳が、自身への世評を、一挙に損なわしめてしまった。

 * * *

貧しい生い立ちであったと伝えられている。
厳しい金銭教育を受けたと想像される。
しかしながら、単に金銭への執着心を募らせたばかりで、
公私のけじめについては、これが疎かであったのではあるまいか。

私財を蓄える。
出(いずる)を抑制する。
その過程で、利用できるものは、すべて利用する。
そういう無分別が、身に染みつき、やがて骨の髄にまで、達していたのではあるまいか。

一人の人間が、頭角を現すまでの、その裏面史が想像される。
おそらくは、報じられる以外のところでも、特異な人生を送っていたのではあるまいか。
残念なことに、私達はそこまで知らなかった。

倹約や始末は、本来褒められるべきことだ。
金遣いの方法さえ誤らなかったら、彼もまた、立志伝中の人物として、
さらなる名声を得たかもしれない。
惜しむらくは、金に囚われ過ぎた。
その始末を誤った。
と言うよりない。
ちなみに私は、東京都民だが、彼には投票していない。
もちろん、今日の事態を見通したわけではない。

 * * *

硬貨を落とした少年は、成長し、やがて大学を卒業した。
母親は、私の店の顧客でもあり、その後も折に触れ、買い物に来てくれた。
「息子の就職が決まりました」
ある時言った。
東京を地盤とする、地方銀行の名を言った。
打ってつけの職ではないか。
金銭を扱わせて、彼に遺漏のあるはずがない。
ほとんど天職のようなものだ。
私は心からの祝意を申し上げた。

その母親も、とうに亡くなられている。
その息子は、支店長を歴任した後、先頃定年を迎えられたと、風の便りに聞いた。
天職を全うしたと思われる。



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叩きたいけれど

パトラッシュさん

澪つくしさん、
お読み頂きまして、ありがとうございます。
戦前の国定教科書、道徳の部にでも、載りそうな話ですね。
おっしゃる通り、今の世で、これを実践する人は、いないでしょうけれど。
舛添氏のトイレの話を、テレビで見ていて、思い出した次第です。

ストレートにたたくのは、私の流儀ではありませんで、こんな批判の仕方になりました。

2016/06/06 10:30:36

好いお話ですね!

澪つくしさん

初めてコメントさせて頂きます。

一円を粗末にするものは、一円に泣くといいます。

そのお母さんは「百円を稼ぐ事の大変さと、簡単に諦めるなという事」を子供に知って欲しかったかどうかは分かりません!
もちろん、溝に落とした百円がもったいないと思ったでしょう!

でも、溝をさらえて・・・ 
百円が見つかって好かったですね♪

見つからなくてもいいから、兎に角遣ってみる!

そんな気持ちを持ったお母さんのお子さんだから、
出世できたのかも・・・ とも思えました。

今の時代では、見られないかもです。

2016/06/05 20:06:50

風潮

パトラッシュさん

シシーマニアさん、
「次郎物語」は懐かしいですね。
おっしゃられてみれば、そんな匂いも、なくはなく……
作者の気付かぬところを、お書き下さり、ありがとうございます。

今、世間はこぞって知事を叩いています。ここを先途と。その尻馬に乗るのは簡単ながら、それは私の流儀ではありません。
(誰も叩かない時こそ、私の出番とも)
それで、一歩引いて、別の面から、彼の人となりに迫ってみたというわけです。
ちなみに、知事への不信感は、私とて、日ごとに増すばかりです。

「剣呑」
まったく外れているわけでも、ありませんが、
ご意図と違っていたなら、仕方ないですね。
いかにも生真面目な、シシーマニアさんらしいです。

2016/06/04 16:13:50

剣呑という言葉

シシーマニアさん

失礼しました。
誤解して、使っていました。
広辞苑を調べて確認しましたら、意図する言葉とは違う様でした。
しみったれた、といった風に言いたかったのですが・・。

何となく、舛添さんのエピソードからそんな印象を受けます。でも、余りにべたな表現なので、ちょっと高尚にと思ったのが、裏目に出ました。

これからは、足を地につけて、歩きたいと思います。

2016/06/04 15:29:30

今は、簡単に人を非難できますから

シシーマニアさん

タイトルも含めて、どこか昭和初期の小説「次郎物語」等にも共通する、懐かしい雰囲気を感じました。

そのくだりがあるからでしょうか。
知事に関する文章からも、余り辛辣な印象は受けませんでした。

話題になっている、知事の行動そのものもさることながら、次から次へと湧き出てくる、些細な剣呑エピソードには、魔女狩り的な嫌悪感も感じていたところでしたので・・。

2016/06/04 15:16:16

当然です

パトラッシュさん

喜美さん、
そうですね。
人に上げたのは、立派に役目を果たしたのですが、
落としたお金は、まるっきりの損そのものですからね。
誰だって、悔しいですよ。

物も同じ。
私達世代は、戦後の貧しい時代を生きて来ていますから、物の大事さをよく知っています。
買うのは最後。
見つかるまで努力するのは、当然のことです。

2016/06/04 14:23:03

何故

喜美さん

話は違うかもしれませんけれど
お金落として拾えない時の悔しさ
何時までも何時までも考える 馬鹿みたいです 
大したお金でもないのに。
あげたお金は何ともないくせに
どうしてでしょう私ばかりかしら?

家の中の探し物もそうなの 買ってくればすむものを 何回でも探します
其れは老人特有ですって。 

2016/06/04 11:45:40

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