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人生いろは坂

地球一周の旅から10年(14) 大西洋を一気に横断 

2014年11月28日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 つい先日、長野県から美味しいリンゴが送られてきた。送ってくれたのはYさんと言う女性だ。Yさんは長野県の
千曲市に住んでいる私の母親くらいの年齢の人だ。私の定年後の生き方に大きな刺激と影響を与えてくれた人でもある。

 実はピースボートと言う世界的にも珍しい活動を続けているこの船は、多くの人に様々な出会いを演出し続けている。
私とYさんが出会ったのも実はこの船の中であった。長い長い大西洋横断の航海の間の出来事だった。この頃、船の上では
様々なイベントや講座が行われていた。そして船上は女性落語家の古今亭菊千代さんを迎えて、落語のワークショップで
大いに賑わっていた。

 私はと言うと、あまりにも多くのことを抱えていてパンク寸前の状態であった。そんなわけで、せっかく一度は申し込んだ
落語のワークショップを断ったりしていた。菊千代さんの残念そうな顔を見るのがつらかった。そして相変わらずと言うか
政治問題や社会問題の方に顔を突っ込んでいた。それが中村水パであった。

 中村水パの講師であった中村隆一さんは、辻信一さんたちと一緒に憲法九条を守ろうとかスローな生き方を提唱している
人だった。また自ら産地へ赴いてフェアトレードの無農薬コーヒーなども輸入販売などしていた。

 何と言ってもこのワークショップの目玉はワークショップ終了時にそのワークショップに参加したものが、それぞれの
テーマごとに分かれショップを開くと言うのが最終日の目標だった。私は大半が若い人と一緒のスロービレッジをテーマに
したグループに入っていた。若者中心のワークショップなのに何故かこの時もおじさんの私があるグループのリーダーに
なっていた。

 この日は発表前の具体化のために、それぞれが理想とするビレッジ構想を持ち寄ることにしていた。船内の叔父さんや
叔母さんたちに自分たちが子どもだったころや若かったころの話を聞いてきて、それを元にスローな生き方をテーマにした
理想の村づくりを考えてみようと言う約束をしていた。

 ところが船内ではにわかに各種のワークショップが始まり、あれもこれも掛け持ちしていた若者はそれどころではなかった。
そして意見を持ち寄ろうと約束していた当日になっても何も出来ていなかった。困った私は、それではこれから手分けして
高齢者の人に話を聞きに行こうと提案した時であった。

 ふと後ろを振り向くと、私の真後ろにふくよかな顔をしたおばちゃんが座っていたのである。これこそ神の助け、早速
おばちゃんからその昔の話を聞くことになった。気付かなかったけれど、初めから一部始終を聞いていたおばちゃんは話の
趣旨が良くわかっていて昔の田舎暮らしを、あれこれと話してくれることになった。この時のおばちゃんこそが、今も交流が
続いているYさんだ。

 Yさんは独身で、保健師として長く長野県の委託を受け農村の生活改善に取り組んできた人であった。そもそも戦後の
農村生活の改善はGHQの指令によるものだったようだ。それまでの農村は日本全国同じようなものであって、主婦が働く
環境は劣悪であった。炊事場は冬はしんしんと冷える「たたき」と呼ばれる土間であった。水汲み場は屋外が多く、中には
釣瓶も少なくなかった。

 トイレは大抵は母屋と離れた屋外にあった。お風呂も良く似た環境に置かれていた。こうした農村生活を少しでも改善
しようと生涯をかけて取り組んでこられ、定年になってからは一念発起をされ東京まで半ば通いの生活をしながら三年かけて
鍼灸師の資格を取られた。つい最近まで自分の住んでいる家を開放して治療院兼高齢者の憩いの場にしていたと言う方であった。

 その生涯を、そして今を地域のために捧げている人であった。スローな生き方のワークショップと並行して船内では肩こりの
治療や自分で出来る鍼灸講座などを開き、私はスロービレッジのお礼に資料作りやそのお手伝いをさせて貰った。家内は何度か
Yさんの治療を受け、それが縁で夫婦ともども船を降りてから10年もの長きにわたって交流が続いている。

 実は船を降りて間もないころ、そのYさんから手紙が来た。自分が所属している「健康生きがいづくりアドバイザー」の資格を
取らないかと言う誘いの手紙であった。どういう経緯で情報を手に入れられたのか定かではないが、その年の秋から暮れにかけて
開かれる健生岡山が主催する受験講座の資料を送ってきてくれた。

 せっかくYさんが勧めてくれた講座なのだからと、さしたる思いもなくこの受験講座を申し込んだ。こうして定年後初めて
友人と呼べるような人たちと机を一緒にすることになった。言い換えれば定年後の第二の人生が、この日から始まったと言っても
過言ではない。それまでは、会社以外の人との繋がりは、わずかばかりの地域の関わりと児島文化協会との関わりしかなかった
からである。

 それこそ会社勤務の時から色んな講座にも参加してみたが、これと言うほどの友人知己は皆無であった。それが定年後の
生き方について学ぶと言う共通テーマから目的を同じくする友人が出来たのであった。まさにYさんの勧めがなければ始まら
なかった事である。その後、数年間の紆余曲折があって児島市民交流センターへ勤務することになった。

 その児島市民交流センターで私がしてきた仕事そのものがピースボート上の再現であった。全ての路線はあらかじめ準備されて
いたもののごとく定年になったその年にピースボートへ乗り、Yさんとの出会いがあって始まったことであった。

 考えてみれば実に不思議な事ばかりである。しかし、漠然としていてつかみどころのないような人生に見えるけれど、それは
自分の意識がそうなっていないがゆえに見えないだけで、誰にでもあることではないだろうか。この健康生きがいづくりアドバイザー
を学び資格を取得した多くの仲間が素晴らしい生き方をしている。これらの人は恐らく人生と言うものの何かを実感しているに
違いない。繰り返すようだが、誰の人生にも設計図がある。言い換えればシナリオがある。

 トパーズ号は大西洋を真っ直ぐに横断し、ブラジルのリオデジャネイロに向かっていた。大西洋の海の色も、その感じも
インド洋のものと良く似ていた。青い地球そのものの実際の姿であった。この頃、もう一つの出来事があった。

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