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人生いろは坂
地球一周の旅から10年(10)
2014年11月19日
テーマ:テーマ無し
このシリーズもアフリカまでたどり着き(10)回を数えることになった。先日、このブログを読んだ家内から活弁の
ことが書き足らないのではないかと言う意見があった。実は書きたくても私自身はほとんど体験していないことなので
書きたくても書けないのだ。ワークショップでは、どんなことが行われていたのかも知らない。ただ知っているのは
ワークショップ最後の企画として何チーム化に分かれての合同発表会が行われた。この時もまた大勢の人が会場に
詰めかけた。
その会場の一人が私だったことぐらいしか書けないのである。そして、この時の活弁体験を逃してしまったという残念な
思いが、帰郷しての児島活弁シネマライブに繋がった事は間違いない。更に書くとすれば、その先に私たち夫婦が活弁を
始めることになった経緯が隠されていたくらいの事であったろうか。
同じ船に乗って同じ体験をしているようでも思い出話は異なる。これが旅と言うものであろう。同じ方向を向いていても
見ていたものは、まるで違っていた等と言うことも少なくない。ましてや102日もの長旅である。体験も見てきたものも
微妙に異なるのは当然であろう。
さて、トパーズ号はアフリカのモンバサ港に着いた。甲板から見下ろすと歓迎の楽団、そしてツアー客を迎えにきた
サファリカーが埠頭にずらりと並んでいた。その数たるや壮観であった。実は近隣のサファリツアーに出かける人たちの
迎えの車であった。参加するツアーこそはそれぞれ異なっていたが、ほとんどの船客は下船した。その時、バラの花一輪が
全員に手渡された。まさか、このアフリカでバラの花の歓迎など受けようとは思ってもみなかったことである。心温まる
歓迎の印であった。
私達はケニアの奥地、マサイマラ国立保護区のツアーに参加した。空港までバスに乗って、そこから中型の飛行機で
現地まで移動した。バスで空港まで移動する際に地域住民の居住区を通過した。実に殺伐として貧しい生活が見て
取れた。ケニアはまだまだ開発途上の国であった。
バスから見下ろす低地には、ひしめき合うようにトタン屋根のバラック建てが並んでいた。そして道端では
散髪屋さんが露店で営業していた。一方、これが店だと言うのだろうか、鉄くずにしか見えないような各種の機械や
自動車の部品を露店で売っていた。
舗装されていない凸凹道は、もうもうと砂塵が舞い上がる。そして少し離れたところには特徴あるバオバブの木が
立っていた。むろん、舗装もされていないから街路樹もない。実に埃っぽく殺伐とした眺めであった。
比較的大きな空港であったが閑散としていた。そこへ中型機が何機か駐機していた。この何機かに分散して乗った。
30人くらいの乗客スペースだろうか。かなり窮屈であった。国際的な安全基準であれば如何なものかと思われる
ほどの老朽機であった。
小さな窓が左右にあって窓際に座ることの出来た私は眼下に広がる景色を飽きもせずに眺めていた。モンバサの空港を
出てからは半ば砂漠を思わせるような景色が続く。空港を飛び立ってしばらくは民家や畑などが見えていたが、その後
ほとんどは木が点在するサバンナのような景色であった。土は総じて赤かった。赤土は鉄分の酸化した色だろうか。
そして大地溝帯の上を飛んだ時には異様な光景が眼下に広がっていた。例えようのないほどのおどろおどろしい
大地の姿であった。今も盛んに火山活動が続くアフリカ大陸の裂け目であった。地球は今も生きていることが実感できる
地域であった。さながら日本国内の地獄と呼ばれている地域をとてつもなく拡大したものだと言えば多少は納得頂ける
であろうか。それが山ではなく平坦な大地に延々と続くのである。
そして飛行左手に偉容に大きな山塊が見えてきた。その中央に聳え立っていたのがアフリカ大陸の最高峰である
キリマンジャロ山であった。頂上付近にわずかに白いものが見えていた。近年、退行が著しい氷河であった。
温暖化の影響によるものであった。その裾野には広大な大地が広がり野生動物たちの保護地区となっている。
近年この地域で問題になっているのは象などの密漁であった。その密漁を監視しているのがマサイ族であった。
もともとマサイ族に国境はなかった。この大地の全てが自分たちの狩猟の場であり生活の場であった。しかし
それとは関係なく国境線が敷かれたために自由な移動が出来なくなった。故に今は定住し、野生動物を保護しながら
酪農で生活している。
壁を牛糞で作った小さな小屋の中が生活の場であった。それでも学制が施行され、この地の子供たちも数年前から
通学出来るようになったとのことであった。英語でおしゃべりが出来た。この時、私達と出会った子供たちも大きく
なっているに違いない。
私達は大平原の中に降り立った。空港などと言うものではなく大草原の中に小さな草ぶきの建物が一つあるだけの
ところであった。そこへサファリカーが迎えに来ていた。どの車に乗れば良いのか分からないままにジープのような
オープンカーに乗った。砂埃を浴びることになるのだが、結果としては、この型の車の方が良かった。四方の視界を
遮るものがなかったからであった。
飛行機は砂埃を巻き上げながらむき出しの大地に着陸した。着陸地一帯の土も赤かった。そして砂利と思わしきもの
全ては石英の白い石であった。実に驚きであった。こんな大きな鉱物が砂利石のごとく赤土に混ざっているのである。
そして数日前に雨季が始まったとのことで、一回の雨で周辺は緑の草原に一変していた。緑の中に点々とティッシュ
ペーパーを散らしたように見えるのは白い花であった。一回の雨だけで一斉に花開いているのである。この大地での
変化は誠に早い。
空港(?)を離れるとすぐにヌーの長い長い列に出くわした。実は空港と思わしきものは野生動物たちの住処であった。
ヌーたちの列は一列だけではなかった。行く筋もの列を作ってゾクゾクとこの地へ集まってきているようであった。
雨季になり草原に緑が蘇るとき、彼らは故郷であるこの地を目指して遠くから移動してくるのであった。
餌である草が豊富な時期に子供を産み育てるのであった。そして、これら草食動物を餌にしているライオンたち肉食
動物も子を産み育てる季節なのである。全ては草に始まる食物連鎖の中にあった。雨が全ての恵みの源だったのである。
そしてこれら膨大な数の野生動物と共生しているのがマサイ族であった。彼らの家畜もまたこの大地の恵みによって
支えられている。
そして私達のような観光客が来るたびに歓迎の踊りを見せ、更には、わずかばかりの生活道具等を売って現金収入
を得ている。どこから集まってくるのだろう。小さな集落の広場がいっぱいになるくらいの人が集まってきた。
見渡す限りの草原で他に集落らしきものは全く見えない。しかし彼らの目には見えているらしい。視力がけた違いに
良いのだ。遠くからこの集落の変化を見ていて集まって来るらしい。
彼らの身体的特徴は、実にすらりとしていて背が高いことである。足が細くて長い。その場でジャンプすると
驚くほど高く飛び上がることが出来る。跳躍力、脚力が抜群である。この人たちが訓練してオリンピックに出場する
ようになると、きっと金メダルは総なめにするに違いない。それほどの運動能力を有している。視力が良いことは
サファリツアーで如何なく発揮される。遠くにいる動物の群れをすぐに見つけることが出来、動物たちに先回りして
ツアー客を案内できるのだ。
さて、一泊二日のマサイマラの旅は一回では書ききれない。続きは改めて明日以降に載せたいと考えている。
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