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人生いろは坂
地球一周の旅から10年(9)
2014年11月17日
テーマ:テーマ無し
昨日は日曜日。晴天に恵まれて建築関係の皆さんによるイベントが屋外の芝生広場で開催されていた。そして屋内では
栄養改善委員のみなさんが主催された栄養改善や医療関係の展示会が盛大に開催されていた。そして午後からは映画鑑賞会が
ジーンズホールで行われた。このように児島市民交流センターは、今や児島地区の住民にとってなくてはならない設備へと
大きく成長した。
思い出せば3年数か月前、こんな設備を請け負ったのだが果たして利用促進をどのようにしていこうかと試行錯誤の
連続であった。提出した計画案通りにはいかないとしても、とにかくそれ相応のことはやっていかなければならないと
それこそ暗中模索、心の中の何かが命ずるままに色んなことを手掛けた。
それらの多くは私が常日頃から考えていた「誰でもが参加者であり、誰でもが主催者になれる」と言うスタイルであった。
ハードルを高くすることなく、完成度を問わないと言う手作り感にあふれた何かを志向した。そうしなければ恐れ多くて
誰も近づかない気がしたからだ。誰でもが講師になれ、誰でもが機会均等に受講できる、これが私の目指したものであった。
第一線を結婚のために退いた子育て中の女性の中には、素晴らしい経歴を持った人も少なくない。現役時代はみんな
バリバリのキャリアウーマンであった。こうした人たちのキャリアを眠らせたままにしておくのはもったいない。もっと
活用できるところ、持っている能力を花開かせることが出来るところや何かそのようなものはないのか。
そうした人たちに出会うたびに、そのようなことを考えていた。そう考えていると不思議なことに、そうした女性が
次々に私を訪ねてくれるようになった。そして子育てサロンと子育てサポーター養成講座から始まった「こじmama」は
今やセンターのイベントには欠かせない存在になりつつある。
いずれこうした人たちも子育てを終える日が来るに違いない。その日が来た時には、望むべくはこの地域でこうした
人たちの就職先を児島に作ると言うのが、私の最終目標であった。残念ながら児島市民交流センターを去る日は近い。
しかし、センターを離れても児島を離れるわけではないので、必ずやそうしたシステムが作れるように努力したいと
今も考えている。望むべくは既成の働き口だけでなく、新たな雇用を生むようなものを自分たちの知恵と工夫で作り
出してほしいと考えている。
この世代から起業家が生まれても良い。彼女たちが結束して何かをやろうと思えば何かあるはずだし、何でも出来る
可能性を秘めている。
さて、今日はセーシェル諸島を離れたトパーズ号の向かう先の話である。もうアフリカ大陸は、すぐ近くにあった。
何日かすれば次の寄港地であるケニアに着く。船内は何となく慌ただしかった。そもそも船内に何もしていない空白の
時間帯はほとんどない。毎日がイベントなどでのお祭り騒ぎである。
ピースボートスタッフが企画するもの、旅行会社であるジャパングレースが企画するもの、若者たちが企画するもの
そして私達のような一般の旅行者が企画するものなど、様々なものが入り乱れるようにして毎日、どこかで開かれている。
何も企画できないものは、そうしたところへ行けば良い。だからイベントからイベントへと梯子をしている人も少なく
ない。
また、こちらのイベントでは主催者であって、午後からは別の人が企画したイベントに参加するのも良い。暗い閉鎖的な
船室にいるよりは良いと通路であり共有スペースに出てきて編み物をしている人もいる。誰かが話しかけてくれるのを
待っている人もいる。
折り紙をいっぱい持ってきて折り方を教えている人もいる。多くの人はこうして話し相手を見つけ友達を作っている。
中にはこうしたこととは全く関わりなくマテ茶を片手にデッキで終日海風に吹かれている人もいる。誰が何をしようが
誰も鑑賞する人はいないし、非日常がこの船内にはある。
しかし、だからと言って争い事が全くないと言うわけでもない。非日常の空間であっても陸上の時と同じように感情の
ままに、わがままに振る舞う人もいれば、人の嫌がらせをする人もいる。暇を持て余したおじさんたちの中には若い娘に
付きまとうものもいて、そんな話題が誰からとなく耳に入ることも少なくない。
たばこ好き、お酒好き、こんなおじさんたちは終日、たばこをくよらせながら過ごしている。船内イベントの時には
自分たちのスペースを肺がん通りと称して開き直っていた。誰が作ったのか通路の傍らには肺がん神社と称するものも
置かれていた。
ダンス好きの男女がいた。この人たちは一集団を作り、きれいなドレスやタキシードに身を包み、香水の匂いを
まき散らしながら終日、ダンスホールで踊っていた。また、麻雀部屋もあったし、ポーカーに勝った負けたと大声で
話している人もいた。また、環境の良くない誠に通信速度の遅いパソコンスペースもあって、早朝よりここに座り込んで
何かをしている人がいた。
私は写真を取り込むことと日誌をつけるためにノートパソコンを一台持ち込んだ。そして記録のためにビデオカメラと
キャノンから売り出されたばかりの一眼レフと使い慣れた小型のデジカメを持って旅立った。ところが大事なビデオ
カメラをフィリピンの旅行の際に居眠りしながら床に落としてしまった。そのため旅立って数日の間に使えなくなって
しまったのである。以来、一眼レフと小さなデジカメが私にとって無くてはならないものとなった。考えてみれば3台を
使いこなすなど無理であったに違いない。
次の寄港地であるケニアのモンバサは近い。モンバサに着いたのはケニアの一番慌ただしい通勤時間帯であった。
私達がデッキでゆっくりと朝食を食べている頃、トパーズ号はモンバサ港に続く長い水路に巨体を浮かべ航行していた。
水路の両岸は勤務先へと急ぐ人であろうか、渡船の乗り降りでごった返していた。遠くにジャングルであろうか深い森が
見えていた。いよいよアフリカである。
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