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地球一周の旅から10年 

2014年10月27日 外部ブログ記事
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 私にとって2004年は非常に記憶に残る年となりました。それは人生の節目とも言うべき定年退職を迎えたことから始まりました。
以前から図書館で本を借りて読んでいた家内が、5月の連休に岡山でピースボートの説明会があるそうなので行って見ないかと
誘ってくれました。

 会場では今まで想像したこともなかった地球一周の旅についての説明があり、その後に個別の勧誘がありました。私たち夫婦に
個別に付いた担当者(この担当者G君とは、その後、劇的な再開を果たすことになるのですが)からの誘いに促されるまま旅の
契約をしたのが全ての始まりでした。

 特に何ということもなかったのですが、その場の雰囲気と時の勢いとでも言ううのでしょうか、いつでも解約できると言う
安易な気持ちのまま契約をしてしまいました。その後、気に留めることもなく定年後の数か月が瞬く間に過ぎて行きました。
断ると言う確たる断る理由もなく、夫婦ともどもその年の健康診断も何ら問題もなかったのでいつの間にか乗船の日を迎える
ことになりました。

 その日が2004年10月21日でした。2004年という年は温暖化による影響のためなのか殊の外、大型の台風が多い年
でした。しかし、私たち夫婦は巨大台風のことも、相次ぐ大きな被害のことも意に留めることもなく、ただただ淡々と地球一周の
旅の乗船の日を迎えました。

 実は、10月21日の前日や前々日は巨大台風がもたらした大雨で西日本各地では大洪水でバスの上に被害者が取り残されるなど
多くの交通機関が完全にマヒしてしまいました。遠方から来る人の多くは途中で足止めを食らい駅のベンチで一夜を過ごしたとか
娘さんの車で交通止めになった道を何度も何度も迂回してやっとの思いで神戸港にたどり着いたとか、ともかくすさまじいまでの
経験をしながら神戸港へたどり着いた人が少なくありませんでした。

 私たち夫婦は幸いなことに神戸に住んでいた娘夫婦のところへ二日間泊めて貰いました。そして相次いで報道される台風情報を
テレビでずっと眺めていました。本当にこれで出港できるのだろうか、少しばかりの不安がよぎりましたが、何とかなるだろう
くらいの何と言うか妙に楽観的な気分でした。

 何となくこの日を迎えることが出来たと言う充足感のようなものだったのでしょうか。いま考えても不思議の感はぬぐえません。
特に計画していた旅でもなく、また特別楽しみにしていたことでもなかったのに、導かれるようにしてこの日を迎えたことは
いま振り返ってみても不思議な事でした。

 参加者の執念だったのでしょうか。台風が過ぎ去った翌日の神戸港には必死の思いでたどり着いた人たちが続々と集まってきました。
重い大きなスーツケースを持て余しているような高齢者もいました。高齢者やシニア世代だけでなく多くは若い世代の人達でした。
見知らぬ同士がこの地に集まったのです。

 本来ならば、神戸港から乗船するはずでしたが、前の航海が荒れ帰港が遅れてしまい、神戸港まで回航できなかったようです。
私達は仕方なく神戸港から何台ものバスのチャーター便を連ねて東京晴海ふ頭へ向かいました。地球一周の旅は思いがけなく
国内のバス旅行から始まったのです。

 しかし考えてみれば、このバス旅行が幸いしました。長い長いバスの旅の中で、これからの航海中寝食を共にする多くの友人が
出来たのです。このバスの中でのい出会いが、その後の船旅での大きな心の支えになったのです。夕方も遅くなって晴海ふ頭に
到着しました。トパーズ号専属のバンドが演奏をしながら私たちを迎え入れてくれました。

 乗船した船は見るからに古い船でした。私たち夫婦の部屋は低い階層にありました。古びた古い部屋でしたが寝具は整えられ
先に届けられた私達の荷物が山ほど積まれていました。中身を確認しながら荷を解き、たちまち必要なものだけを取り出して
長い一日を終了しました。

 港に停泊した船の中を歩くと閑散としていて薄暗く、この船で明日からの101日間ここで過ごすのかと思うと感慨無量のものが
ありました。窓からは東京のビルの明かりが遠くに見えていました。まるで異国の地を眺めているような気持でした。

 次回に続く・・・・。

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