筆さんぽ

父の財産 

2024年04月01日 ナビトモブログ記事
テーマ:エッセイ

娘がまだ幼いとき、よく手をつないで歩いた。
 手を握ってから、ぼくは、ごく自然に娘の手を、「ギュッ、ギュッ、ギュッ」と三回握って角を左に曲がった。

これは、ぼくと娘だけがわかる「サイン」で、道をまっすぐ行くときは、手を「ギュッ」と一回握る。右に曲がるときは「ギュッ、ギュッ」と二回。三回握ったときは左に曲がる。

 この、「技術的」ともいえる「サイン」は、ぼくが幼いころ、父におそわった。

 
父が亡くなったとき。
 ぼくと兄で父の遺品を整理していると、押入れの奥に、小さな木箱を見つけた。
 何だろう。ぼくと兄の眼が合った。

 父は、無口な機械設計の技術者であった。
 機械図面を引くような厳格な人で、三男のぼくは「無傷」だったが、長兄と次兄は、父が若かったのでよく殴られたと聞く。実際、兄の頭には今でも傷が残る。食事のときも「食べながらしゃべるな!と、いつも静かな食卓だった。

朝食のとき、父はご飯に、生卵の黄身だけをかけて食べていた。これは、言われたわけではないが、子どもたちは「父の特権」のように思っていた。

後年、ぼくは大人になってから「父の特権」をやってみたが、おいしいとは思わなかった。

父は散歩が好きで、よく連れていってくれたが、商店街など繁華な場所は避け、子どものぼくは面白くも楽しくもなかった。

父は玩具の類を買ってくれることはなかったが、めずらしく当時高価だった。野球のグローブを買いに行ったことがある。父は買い物など目的のあるときは、まっすぐ前を見てスタスタと、曲がり角もまるで直角に曲がり、子どものぼくは、寄り道なく、小走りで後をついていった。

スポーツ用品店で父は店員さんに、天然皮革と人工皮革の、弾力性の比較などをしつこく聞いていた。それを聞いていて、ぼくは、グローブはもうほしくなくなってしまっていた。

初めて買ってくれた本は、古書店で見つけた『科学の秘密』といった、カタイ内容のもので、ぼくよりも父のほうが夢中になって読んでいた。

父の機嫌のよいとき、アニメの映画に連れて行ってほしいというと、「あれは面白くない」と決めつけ、結局、子どもには退屈至極なエイゼンシュテイン監督の『イワン雷帝』だったり、暗く難解なメルヴルの原作に忠実な、ジョン・ヒューストン監督の『白鯨』だった。

明らかに映画と文学の理論好きの父の趣味で、映画は、小学生のぼくには読めない「大学の教科書」だった。それにしても子どもに、鯨の骨で作った白い義足のエイハブ船長は怖すぎた。

余談だが、技術者の道を選んだ次兄も父と似たところがあった。次兄が勤めだして、給料日に食事に連れていってもらったことがある。

レストランで「何でも好きなモノを注文しなさい」と言われ、「ハンバーグ」と言った。すると次兄は「情けない、ちゃんとした肉を食べろ」とステーキにされた。子どもにはステーキは硬すぎる。

父は、ぼくを技術者にしたかった。兄たちは父の思いを継いで理工系の道に進んだ。とくに次兄は父の自慢で、我が家の出世頭だった。

ぼくは、グローブにロマンを求めない、映画を理論する、本を物語しない父に反発して、文科系の道を選んだ。父は、父の思いを継がないぼくを、親不孝な息子だと思っていただろう。

ぼくが初めて出版して書店に並んだ本について何も聞かれなかった。後に母に聞いたが、書店に何十冊も注文したという。ぼくは知らなかったし、父から「読んだ」という話も聞かなかった。父は文筆の仕事を好まなかったのだろう。


 木箱には何が入っているのだろう。厳格な父のことだから、コツコツと貯めた財産を残してくれたのだろうか。ぼくも兄もドキドキした。木箱をそうっと開けた。
 木箱の中には、茶封筒が収まっていた。茶封筒には、ぼくが小学生のとき、学校の小さな賞をもらった作文などがきれいに畳んで入れてあった。兄は「なーんだ」とがっかりした。ぼくは、心のなかで「親父、ありがとう」といった。

 先立たれた妻と恋愛時代に散歩したとき、ぼくは妻の手を「ギュッ、ギュッ」と二回握って右に曲がり、「サイン」の「由来」を話した。そのときぼくは、妻に、すでに逝った父を紹介したような気がした。
 これも父が残した「財産」である。



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