筆さんぽ

夫のあなたは誰なの? 

2024年05月26日 ナビトモブログ記事
テーマ:ショートストーリー

5月24日朝、神奈川県足柄下郡湯河原町SG遺伝子学研究所の研究室で、研究員の渡辺始(42)が首を吊っているのが発見され、死亡が確認された。遺書はなかった」(関東新聞)

 暁子は新聞の社会面のベタ記事をみてつぶやいた。「これ、お父さんの研究所だわ」

それから十日ほどたった、ある昼下がり、夫の園田省吾から電話があった。
 「たいへんなものを見つけたんだ! 暁子、すぐに来てほしいんだ!」
 
暁子は身支度して、夫の省吾が研究員として単身赴任している、湯河原のSG遺伝子学研究所に向かった。
 東京・の自宅から東京駅に出て、新幹線と東海道本線に乗りついで、2時間ほどで湯河原に着いた。

 夫の省吾は、約束どおり駅前観光案内所の前で待っていた。
 「急に悪かったな」
 「それで、話って?」
 「今日は泊まれるんだろ? 温泉に宿をとったよ、それからにしよう」
 「ええ、子どもたちには言ってきたわ」

 省吾と暁子の車は、駅から県道を北西に走り、温泉街の方へ向かった。
 「暁子が好きな露天風呂もある宿だ」
 「久しぶりで、うれしいわ」
 沿道の木々の新緑がまぶしく飛び込んでくる。
 「木の葉生まれ変わってきたんだな。ぼくもそうしたいんよ」  
 「いやだわ、あなた。これから茂らすのよ」
 「茂ったあとには葉は落ちる。それをわかっているのだろうか」
 「あなた変よ、おかしいこと言わないで」
 車は十分ほどで宿に着いた。

 宿は、木々の残像のように、昭和の雰囲気を残した風情で、部屋にもその香りが漂っていた。
 到着後、すぐにお風呂に入った。暁子が入った露天風呂は、庭園を眺めながらの入浴だったが、心やすらぐと、かえって暁子は、夫省吾の「たいへんなものを見つけた」が気になっていた。
 地元の食材を使ったおいしい料理をいただいているとき、省吾から口を切った。

 「暁子も新聞で読んだと思うが、渡辺君のことなんだ」
 暁子は箸を休めて省吾の話を聴いた。
 省吾は渡辺が自殺したあと、残務整理のために、渡辺のパソコンを開いた。
 
渡辺は、簡単にいうと、遺伝子を分析することで、その人間の寿命がわかることを発見した。その分析法を使えば、人間の寿命がわかることになる。

 「そうなんだ、渡辺は、その分析法で自分の寿命を調べ、失望して自殺したんだろう」

 暁子が急いで口をはさんだ。 
 「あなたは、自分を分析したの?」
 「うん、した」
 
「それでどうだったの」
 省吾は黙っていた。
 省吾は考えていた。みんながみんな自分の寿命を知ったら、世の中はどうなるのだろうか。
 「何を考えているの?寿命のことでしょう?私は、女はねえ、けっこう往生際がいいと思うわ。男は、パニック、錯乱状態になるんじゃあないかしら」

 ここ湯河原の温泉には文人が好んで投宿、原稿を書いた作家も多かった。
 そのうちのひとり、芥川龍之介は、「ただぼんやりした不安」と遺書に記し、三十五歳で命を断った。国木田独歩は、「急になんだか悲しくなってきたんだ」と泣きじゃくり37歳のとき、病で逝った。

 もし芥川が自分の「寿命」を知っていたとすると、その長短はともかく、すくなくとも「ただぼんやりとした不安」を抱え込むことはなかっただろうか。国木田は、肺結核を患っていたが、我が「寿命」を知っていたら、喀血におののき、泣きじゃくることはなかっただろうか。

 そうだろうな、と省吾は思っていた。人間には知っていけないものがあるんだ。知らないことで世の中が動いているのだろう。
 
 「それで、自分を分析した結果はどうでしたの?」
 「………」
 「何を聞いても驚かないわ、言ってくださいな!」
 「………」
 「ねえ、早く言って!」
 
「じつは………私は20年前に死んでいるんだ」
 「結婚前じゃあないの」
 「そうなんだ」

 「………じゃあ、あなたは誰なの?」
(了)



拍手する


コメントをするにはログインが必要です

PR







上部へ