筆さんぽ

旅エッセイ ベトナム「マイフレンド」 

2024年02月15日 ナビトモブログ記事
テーマ:エッセイ

旅エッセイ
ベトナム「マイフレンド」(前編)

朝起きると、チノパンの右後ろのポケットに入れておいたサイフがない。
右前ポケットに入れておいたわずかなベトナム紙幣だけが残っている。パスポートや飛行機のチケット、クレジットカード、トラベラーズチェックは、幸いホテルの部屋の金庫に入れておいた。サイフの中は大金ではないが、この旅行のためにバンコクで換金した米ドル紙幣のすべてだ。
つまり異国で「一文無し」ということになる。

若いころ、ベトナムを旅したときの話しである。

 どの路も人があふれ、シクロ(前輪2輪後輪1輪の自転車タクシー)と自転車とバイクが切れ目なく流れていた。パパイヤやマンゴーを盛った大きな洗面器の前で、売り子の女性が大声で叫ぶ、笑いかけてくる。サトウキビのジュースを売る屋台の老婆が手招きで飲んでいかないかと誘う。手招きに笑顔で断りながら、よそ見をしてぶつかってくる男の子のお尻を軽くぽんと叩いて前に進む。
一時間も歩きまわると、人息や哄笑や子どもの鳴き声が身体中にまとわりつき、灼熱の太陽も囃し立て、ほとんど立っていられないほど朦朧としてくる。
 ホテルのクーラーと昼寝は、何よりのご馳走だった。

灼熱のすっかり熟れてやさしくなり、風もそれにならって身体の火照りを癒やしてくれる。シクロに乗ってサイゴン河畔のレストランへ行った、
レタスを巻いて食べるチャーゾー(ベトナム春巻)の魚介の風味や、チャオトム(エビちくわ)のコクが舌を踊らせた。その脳ミソがことのほかうまいチム・クアイ(ハトの丸焼きは、一人では食べられないほどのボリュームだが、ルアモイと呼ばれるベトナムのウオッカが助けてくれる)。

ルアモイは、ウオッカと呼ばれるが、日本の焼酎のような香りが鼻をつき、口に含むと舌の上でピリピリと騒ぐ。おそらくは米を原料とした蒸留酒なのだろう。鼻をくすぐり、舌ではしゃぐが、これが比較的あっさりとしたベトナム料理とじつに相性がよい。
 ゆるやかに流れる川面を茜色に染めていた太陽は、いつのまにか消えていた。

ルアモイの火照りを、さらさらと肌を撫でて通り過ぎる夜風が介抱してくれる。
 店の人にお願いしてシクロを呼んでもらい、ホテルに戻ることにした。シクロは河沿いに大通りを走り、ゆるやかな坂をのぼり、明るい広場を横切り、暗闇に入り、小路を何本かやり過ごして、ちいさな店の前で止まった。

頼んだわけではなかった。シクロの青年は気弱に、友人の店だから一杯だけ飲んでいってほしいと、英語でたどたどしく言った。飲み終わるまで待っていると付け加えた。
 朝が早いからと断ったが、ぎこちなく何度も、日本人のように深々とおじぎをしながら、同じことを繰り返し、またおじぎする。
 しかたなくビール一杯を飲んだら帰ると念を押して店に入った。

狭い店内は明るくて陽気だった。東欧の観光客でいっぱいだった。カウンターも鈴なりだったが、店の主人がカウンターにちいさな席を作ってくれた。横にずれてくれた隣の夫婦は、お礼を言うと、労働組合のツアーでチェコのプラハからやってきたという。ふたりともビールで顔が真っ赤に染まっていた。プラハのピルゼンビールが一番うまい、プラハのカレル大学はヨーロッパで一番古い、といったお国自慢がはじまる。

お互いさほど達者でない英会話では、お国自慢が精いっぱいである。それでも、酒がうまいと肴はなんでもよいことになる。フジヤマに乾杯!ピルゼンビール万歳! とジョッキを重ねた。
小一時間でお店を出てホテルに帰った。
「おじぎ青年」は、シクロをこぎながら何度もお礼を言った。

サイフがない、冷静に考えてみよう。
おそらく、ポケットから出し入れしたときに落としたのだろう。ドル紙幣で支払ったのは、サイゴン川河畔のレストランと、「お国自慢の店」の二カ所である。そう、「お国自慢の店」はサイフのドル紙幣で支払ったので、サイフを失くしたのは、あの店か、あるいはその後である。とりあえず、「お国自慢の店」に行ってみようか。いや、夜道だったので、店の名前も場所もわからない。そうだ、シクロの「おじぎ青年」が知っている。だめだ、雑踏の町のなかで、「おじぎ青年」をさがすのは不可能である。

 フロントに降りた。事情を話し、トラベラーズチェックを現金化できる銀行などはないだろうかと相談した。
三、四人の従業員が出てきて話を-聞いてくれたが、それぞれ同情の目で首をふるだけであった。(この当時、ベトナムではトラベラーズチェックを使えなかった)

ところがしばらくして、そのなかの一人、民族衣装のアオザイの美人がすばらしいアイデアを出してくれた。
アオザイ美人は、同宿しているタイ人商社マンとあなたは友人ではないか(商社マンと空港から一緒のクルマで来たので友人同士にみえたのだろう)、彼に交換してもらえばいいだろうと、いうのである。
なかなか素敵な案である。

タイ人商社マンは、ほんとうの友人のようにやさしかった。身体を大きくゆすって、お安いご用とばかり、サイフからドル紙幣を気前よく出して、サインをしていないぼくのトラベラーズチェックと交換してくれた。

この日は、シクロでホーチミン市の名所を回ることにした。
資金はある。ホテルの前に並ぶシクロを一台チャーターすることにした。力持でやさしいシクロがいいと、品定めしていると、なかのひとりが「マイフレンド!」と声をかけてきた。彼にとって「こんにちは」ぐらいの気持ちで、特別な意味はないだろうが、今日のぼくにとっては、じつに響きのいい言葉である。今日いちばん好きな言葉である。
力はなさそうだが、さっそくマイフレンド氏と料金交渉をして、握手して「契約成立」、市内をまわった。

ホーチミン市は、かつてサイゴンと呼ばれた。この都市が本格的に発展したのはフランスの統治時代、19世紀の半ばからである。そのため、町のつくりかたはフランスふうで、町の要所に広場があって、広場からは放射線状に街路が広がっている。街路の多くが美しい並木道である。その時代に建てられた郵便局や、バルコニーが突き出た赤い屋根瓦の家、サイゴン港を見下ろすクーロンホテルなどにフランスの香りがただよい、かつて「プチ・パリ」と呼ばれたのもうなずける。

シクロは統一教会(旧大統領官邸)や歴史博物館、ホーおじさん記念館などをまわり、戦争犯罪展示館でひと休みした。ここには、アメリカがベトナム戦争に注ぎ込んだ武器や、枯葉作戦の被害などが展示してあった。

タバコをすすめながら(この当時、ぼくもタバコを吸っていたが、いまは完全禁煙している)「マイフレンド」と話す。
 彼は解放前、南ベトナム政府軍の兵士で、英語はそのときおぼえたという。と話しながら、しきりに、ぼくのグリーンのポロシャツをほめる。妻が病気で、四人の子どもを学校に行かせるのはたいへんだ、といいながら、日本製のシャツは美しいなと、しきりにほめる。

話題を変えるため、昨日のドル紙幣紛失事件のてんまつを話した。世間話のつもりだった。ところが「マイフレンド」はすっかり同情して「おじぎ青年」のシクロをさがしだして、例の店に行ってみようと言い出した。ぼくの不注意で紛失してしまったのだからと強調したが、今日半日チャーターしてくれたお礼に、料金はいらないから一緒にさがそうと、マイフレンドは言う。

マイフレンドの話によると、シクロの客待ちの場所はそれぞれ決まっていて、サイゴン川河畔のレストランの場所がわかれば、そのシクロに必ず会うことができるという。
(あしたの後編につづく)



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