筆さんぽ

歌謡曲と恋愛と 

2024年01月13日 ナビトモブログ記事
テーマ:筆さんぽ

散歩道に、過日亡くなった八代亜紀さんのギャラリーがあるためだろうか、通るたびに、むかし聴いた歌謡曲を思い出す。
ラジオからときどき、むかしの歌謡曲が流れてくる。ふだんは積極的に聴くことはないが、夜も更けて、八代亜紀さんのこともあったので、「真面目に」聴いた。
作詞家の星野哲郎は、好きな「詩人」の一人である

かわいそうにと 慰められて
それで気がすむ俺じゃない
花がひとりで散るように
俺の涙は俺が拭く
(美樹克彦「俺の涙は俺がふく」 作詞:星野哲郎)

この詩のモラルは「自立」をすすめているのであろう。
たとえば「あなたなしではさみしくてとても生きていけない」といったやみくもの愛情に対して、星野の詩は、別の生き方を処方しているようである。

恋愛。「幸福な社会」では、人は恋にすぐ飽きるが、「不幸な社会」だからこそ、個人的なことに情熱を燃やすとはいえないであろうか。
しかし、情熱的な行動は社会の祝福をうけるとはかぎらない。
「俺の涙は俺がふく」、つまり自分ひとりで死んでいくという心づもりなしには、個人的なことに情熱を注ぎ込んではいけないようである。

人間、何かに行き詰まったり躓いたりしたときは原点に戻れという。
ラブレターを出すかどうかまよっていた高校生のころは、心には「純愛」しかなかったように思う。
邪心のない、ひたむきな愛のことである。「プラトニック・ラブ」、見返りを求めない「無償の愛」のことである。
星野はまた処方する。

おれが死んだらしあわせな
恋をしてくれ たのんだぜ
………
おまえにゃすてきな
明日がある
(渡哲也「純愛ブルース」作詞 星野哲郎)

繰り返しになるが、情熱的な行動主義はどんな時代でも社会全体の祝福を受けるというわけにはいかないことは、ご体験した方もおられると思う。

人に好かれていい子になって
落ちてゆくときゃ ひとりじゃないか
おれの墓場はおいらがさがす
そうだその気でいこうじゃないか
(畠山みどり「出世街道」作詞:星野哲郎)

「おれの墓場はおいらがさがす」という心づもりなしでは、個人的なことに情熱を注ぎ込む、たとえば、熱愛ことなどできない、いや、してはいけないようである。



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