読書日記

『田中家の三十二万石』 <旧>読書日記1506 

2023年10月31日 ナビトモブログ記事
テーマ:<旧>読書日記


岩井三四二『田中家の三十二万石』光文社(図書館)

筑後国に32万石の所領を得た田中家という藩があった。実は田中家の前にこの地で13万2千国を領していたのは立花家であり、この立花家は関ヶ原の戦いで西軍に属していたために1600年に改易。その地を受け継いだ田中家であったが、わずか20年で無嗣断絶。その後は再び立花家が10万9千石でこの地に返り咲いた。

だが田中家が領したのは32万石あまりで筑後一国をまるまる支配したのである。それをなしたのは田中久兵衛吉政。十六の歳に貧しい百姓から地元武将の小者となり、手柄を立ててもらった初めての禄はたった3石。仕える前に自分が耕していた田を所領として貰った(それでも農民であった時には収入の半分を税としてとられたものを自分の物と出来るのであるから収入は倍増)。

何が何でも出世をめざし、がむしゃらに戦い、運と度胸、さらに冷静さも併せ持ち、時に痛快に、時に歯を食いしばって、ついには大名へと出世していった田中久兵衛義政の一生を綴るのが本書である。「なぜ田中吉政は無名なのか」と著者自身が連載していた『小説宝石』で書いているのであるが、ネットでも読める。

著者の考えによると、一番の原因は20年で潰れてしまったことではないかと書いている。そして冗談交じりに「田中」という平凡な姓であることが、例えば織田とか伊達とかいういかにも由緒ありげな姓に比べてありがたみを感じ憎いのではないか、とも書いている。

もう一つの原因は田中吉政は出世していく過程で秀吉傘下に入るのであるが、後に2代目関白となる豊臣秀次の補佐(老臣の第一位)として終始仕えていたことが原因では無かろうか。数十万石の所領を秀次に代わって支配し、出陣すれば事実上の指揮官として采配を揮うけれども名目上はすべて秀次のものであり、その代理でしか無かった。一方で関白秀次にたびたび諫言をし、秀次が自害させられた時は「秀次によく諌言をした」という理由で連座しなかったばかりか加増まで受けた。関ヶ原の時は三河岡崎上の城主として東軍に与し、石田三成を捉えるなどの戦功を上げ、それ故に筑後32万石の領主となった時には自分の手で好きな様に振る舞えるという喜びに満ちていた。

実際、吉政は転封の過程で居城とした近江国八幡(現滋賀県近江八幡市)、三河国岡崎(現愛知県岡崎市)、筑後国柳川(現福岡県柳川市)などに、現在につながる都市設計を行っており、ブラタモリでも出てきた柳川と久留米とを結ぶ田中街道も吉政の施策によるものである。

だが、物語の終盤で著者は吉政が妻と家庭に恵まれていたとは言えなかったことも書き、跡目を継がそうと思っていた長男吉次と徳川家に人質となり家康が推した4男の忠政との争いなども描かれている。結局、後を継いだ忠政が継嗣なくして死んだために田中家とその所領は分散することになった。

ちなみに、吉次の長男は吉勝民部、孫の田中政信は、江戸幕府将軍徳川秀忠に召し出され、210俵の旗本として存続した。本書はその体裁をこの吉勝を旗本としてかかえるかどうかを審議するために、田中吉政の生涯をその家人であった宮川新兵衛に聞くという形を取っている。
(2021年5月12日読了)



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