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南房総市の民話も非常に多い 

2023年07月29日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

朝、新しいおかずセット2回目。やっぱり主菜のお味がピンとこない。副菜は皆美味しいのに。


胃の調子は良く無いし腸の動きもあまり良く無い。それでも完食。
期待して取り替えたおかずセット。以前の方が美味しかったかも。とほほ

今日は南房総市の民話を午前中いっぱいかけて、どっさりコピー、貼り付け作業をしました。これ、意外なほど時間のかかる作業なんです。
古本を買って順番に読めば、こんな苦労はしなくて済むけれど、町の昔話を、しっかりネットに保存されているのを見つけると、読みたくなります。
昔あるところに・・・ではなく、何町のどこそこでと、地名が入ると読み甲斐がある気がします。地図で調べてから読めますし、イメージが湧きやすい。


短いお話ばかりで、同じ作業を繰り返してお昼過ぎまでかかって、くたびれてしまいました。
収録は疲れませんが原稿作りの段階でくたびれてしまいます。


お昼は食欲ないのでお菓子類で良い加減に。
野菜ジュースは切らして居て、慌てて注文。ネットスーパーは便利です!


声が潰れているので今日は収録しません。その代わり物語を印刷できました。収録は明日。


 名戸川原(なづがっぱら)の奇石
平舘(へだて)の名戸川原(なづがっぱら)に「礫石」(つぶていし)と「神楽石」(かぐらいし)と呼ばれる奇石があり、おもしろい話が残っています。
礫石は、鎌倉時代に安房国朝夷の住人だった朝比奈三郎義秀(父は鎌倉幕府・侍所別当の和田義盛)が、朝夷山(あせーなやま)から投げ飛ばしたものと言われています。その石は6メートル四方もある大きな物ですが、なにしろ義秀は、怪力すぎるという理由で、閻魔(えんま)から地獄に責め落とされそうに なったとき、逆に閻魔を引きまわし、極楽へ案内させてしまったという話の持ち主でしたから、そんな石など投げ飛ばすくらい造作もないことだったのです。
神楽石については、次のような話があります。大昔、名戸川原は雷神が暴れまわる所で、人が住むに住めない状態でした。 
それを憂いた牛頭天王(ごずてんのう)は、雷神を鎮めようと、名戸川原で能を演じさせましたが、雷神はそれを聞き入れず、いっそう大暴れをしたのです。
能を演じた獅子(しし)と蝦蟇(がま)は助けを求めて、能蔵院(のうぞういん)の方へ逃げようとしましたが、たちまち石にされてしまいました。それが神楽石です。
蛇岩(へびいわ)千倉町千田に高皇産霊神社(たかみむすびじんじゃ)と呼ぶ荘厳(そうごん)な社(やしろ)があります。一の鳥居をくぐり、水田や花畑に挟まれた参道を進みますと、やがて二の鳥居に至ります。その鳥居と境内に上(のぼ)る石段との間に、蔦(つた)にからまれた岩が、左から突き出ています。
その岩は、正月や祭礼など一度に多くの人たちが参詣する時、少し邪魔になりますから、取り除いた方が良いのではと誰も思いますが、それをできない謂(いわ)れがあるのです。
昔、千田の村人たちが、この岩を取り除こうとして作業を始めますと、岩から大きな白い蛇が出てきたのです。それだけでは驚くことはないのですが、その蛇は頭が幾つもある怪蛇(かいじゃ)でしたから、作業をしていた村人たちは、びっくり仰天。中には恐ろしさのあまり逃げ出してしまった者もいました。
しかし少し時が経ちますと、村人たちからは岩から出た白い蛇を、高皇産霊神社を守る神蛇(しんじゃ)だったのだろうと考えるようになり、蛇の棲処(すみか)だった岩は、永久に残そうと決めました。
ですから岩は、「蛇岩」と呼ばれて今も残っているのです。
鰯(いわし)と蟹(かに)
千倉町の高塚不動の信者は、決して鰯と蟹を食べません。
浜に住んでいながらなぜだろうと、不思議に思われるかもしれませんが、それには、次のような話があるからです。
昔むかし、七浦の海にどこから流れておいでになったのか、尊い不動様が浮か んでいらっしゃいました。それは金色まばゆい、見るからに霊験あらたかなお姿でした。
すると、どこからともなく集まったたくさんの鰯が、真っ黒な頭をそろえて、不動様を磯(いそ)までお連れしたのです。
磯におくだりになった不動様のお姿はいっそう尊く、金色の光はあたりを払うように見えました。
そのお光を慕ってか、何万、何十万とも数知れぬ蟹が浜いっぱいに集まり、力を合わせて不動様を高塚山の上までお連れ申したのです。
このような話で、不動様は高塚山に御鎮座なさったのですから、ありがたい霊験あらたかな不動様を里人たちがいただくことができるのは、鰯と蟹のおかげに違いないですね。
高塚不動の信者が鰯と蟹を食べないのは、こうしたことからです。
黒星 
千倉町を通る国道に沿った、白間津と大川の境界線の上に、『黒星(ころぼし)』と呼ばれる岩があります。
地元の人の話によりますと、昔は黒星(くろぼし)と呼んだそうですが、いつの頃か訛(なま)って今の名になったというのです。  
その岩は、二坪ぐらいの大きさで、一見普通の岩と何ら異なるところのない岩ですが、大昔起きた大きな地震のとき、高塚山から転げ落ちたもののようだというのです。
黒星は西の方がえぐれて空洞になっていますので、昔はその前に、よく線香や飯(めし)、餅(もち)などを供える人がいました。でもそのとき、黒星を撫(な)ぜたり、黒星に寄り掛かったりする者は一人もいませんでした。
それは地元の人たちが、「黒星に触れてはならない。触れれば必ず祟(たた)りがある」というタブー(禁忌(きんき))を持っているからです。どうして黒星の岩に触れてはいけないことになったのかは、誰にも分かりませんが、恐らく、この岩が転落したとき、多くの人を圧殺したためではないかと想像されています。
忽戸(こっと)の三番叟(さんばそう)昔むかし、房州一帯が大きな旱魃(かんばつ)に見舞われました。野も山も草木は枯れ、地面は割れて一滴の水も見られませんでした。すべてが餓死(がし)寸前の状態になったのです。
「このままでは、村中が恐ろしいことになるぞ」と忽戸の村役人たちは相談をして、村の氏神・春日明神(今の荒磯魚見根神社)の本社である、奈良の春日大明神に雨乞いのお願いに行きました。
春日大明神では能の舞を伝授され、「この舞は、三番叟という春日大明神の舞である。これを神前に奉納すれば3日以内に雨が降る」と神のお告げを受けました。
村役人たちは教えられた三番叟を急ぎ持ち帰り、早速、氏神に奉納しました。すると、一天にわかにかき曇り、雨が滝のように降り出したのです。野にも山にも水がとうとうと流れて、緑がよみがえりました。そして農産物は豊作になりました。
それ以来、忽戸の村人たちは、この三番叟を有難い神の舞としてあがめ、毎年旧暦6月15日を祭日として氏神に奉納することにしたのです。
※この舞は県指定無形民俗文化財になっています。
雷台の黒鯛ヶ淵
高塚の山奥、豊房村(現館山市)との境近くの深山に、「雷台(かみなりだい)」と呼ぶところがあります。
その辺りに近づくと、いつも雷がゴロゴロ鳴っていますので、この名があるというのですが、そこには小川もあります。
生い茂った木々の雫(しずく)を集めて谷間を流れ、やがてほかの谷川と合して長尾川となる小川なのですが、この小川は、雷台に淵も作っています。水の青黒い深い深い淵です。
この淵には、昔、大きな黒鯛が棲んでいたという噂がありました。黒鯛は、言うまでもなく海の魚です。
しかし、荒波に生きる勇ましい魚ですから、この淵まで上って来たのでしょうが、それにしても不思議なことと言えます。
黒鯛がいたことから「黒鯛ヶ淵」と呼ばれているのですが、ある年の小春日に、太郎左衛門という家の者が、その黒鯛を釣り上げようとして、この淵に近づいたところ、淵を禊(みそぎ)の場にしていた天狗に、投げつけられて、大怪我をしてからは、誰も恐れて近づく者はいなくなったそうです。

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