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迷いあってこそ私

大好きな姉のこと 

2021年10月04日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



備忘録として、やはり書き留めようと決心。重い話なのでスルーして下さい。3年前、4年前になるのか。2018年9月、義兄からLINEが入る。「---頼みがある。(70歳の姉)の様子が変だ。なんとなく話をしてくれませんか--」実は その前に姉から連絡をもらっていた。春頃から出来ていたおできが今ではこぶしほどに大きくなったのよと。医者嫌いで働き者の姉は、70歳になっても働ける所があれば、月岡温泉のホテルの賄いにも出かけた。姉は常々、義兄への感謝を口にする。義兄は、妻の実家、私の実家だが零細企業の実家を支えてきた。実家は、義兄の退職を機に、いや 倒産を選択して、義兄は退職した。倒産してから一年も経たない4月、姉は自身の身体の変化に気づく。自身の身体の変化を憂う暇も無いほどに、さらに上の姉(76歳)の面倒を見ていた。こちらの姉にも記録したいほどの問題が山積していた。姉は「(義兄に)心配かけたく無いのよ。痛い方の足は見せないようにしているし、彼の前では歩かないのよ。でも、本当のところ、このおできは何かしらね。そんなに痛くは無いのよ。歩き辛いくらい。お仕事辞めますと言おうとしたら、修学旅行が入っちゃって言えなくなっちゃったのよ」と。その声は、切ないと言うよりも頼りにされている事を誇りにするかのように明るい。とにかく受診を勧め、外科の予約を取る。そして、義兄からのLINEがあったことを伝えると、「(私)ちゃん、まだ言わないでね。医者に診てもらってはっきりしてからにするわ。この間、福島の東山温泉に二人で行ってきたのよ。楽しかったわぁ。二人きりの旅行なんて、ほんと何年ぶりだったんだろう。」零細企業で生涯働いて、70歳の姉と77歳の義兄夫婦の年金ではやっとの生活だって。だから、二人は、それぞれにアルバイトに一生懸命だった。軽自動車に乗って二人の温泉旅行と聞いて、姉たちにはこれからもっともっと楽しんでもらいたい、貰えると。私は30歳で両親を見送ったが、幼い頃から第二の母のように世話をしてくれた7歳年上の姉がいたから、その寂しさは半分以下となり、今日まで頑張れた。この姉といっぱいいっぱい話をしながら楽しくこれからの老後を生きるつもりだった。姉の診療は、その重大さから義兄に秘密どころではなくなった。軟部肉腫1年間で1540名、10万人あたり3人。町の外科医院から県立病院、大学病院へとわずか1日で判明。手遅れだった。入院までの待機中の姉の家を訪ねた。会っている間、当人を前にして 不覚にも泣き続けた。いろんなどうしてが渦巻いた。贅沢もせず、ひたすら働き者。困っている人や悩んでいる人を見過ごせない。若い頃、その容姿や風貌が当時の女優ソファローレンそっくりと、街の高校生男子が見に来るほどだった。私は、姉に思いを寄せる見知らぬ高校生男子から恋文を預かり、少し鼻高々だった。その姉は実家に就職した義兄とたちまち恋に落ちたと。義兄のその働きぶりに両親は全幅の信頼を置いた、実の子の後継者よりも。商売の形は時代とともには変わった。姉夫婦は善良に生き、廃れゆく稼業を支えてくれた。姉は泣きやまぬ私に笑いながら、「(私)ちゃん、(私)ちゃんだって明日は分からないのよ。交通事故だって、災害だって前もっては分からないのよ。今一日が大切だからさ、ね。」逆らえない運命に怒っても勝ち目は無いと、姉の覚悟が伝わって来た。それからまもなく大学病院に入院し、姉の闘病が始まった。姉は、自身の事で義兄が、息子や孫がそれぞれの仕事に支障が出る事を嫌った。私は幸いなことに、当時週三日の嘱託勤務。月に2回、東京、さいたまから新幹線MAXときに乗車していた。2010年2011年は嘱託で新潟市に勤務しており、その当時の住まいや職場や新潟の海岸の松林が姉の病室の窓から見えた。私は窓を眺め、姉の話をたくさんたくさん聞いた。入院の暇もあってか姉は雄弁だった。痩せゆく姉を直視できなかった。10月入院からあっという間に冬を迎えた。当初、治るかもしれないと奇跡を信じていた姉も、あちらこちらに転移する現実を受け入れたかのように見えた。姉から「葬式の時の写真、どうしようかな」と。えって驚く私に、優しく微笑みながら、「この痩せっぽっちの顔は嫌だわ、これなんかどうかな」と20年前の孫のお七夜で、珍しく着物を着て微笑む写真を差し出した。痩せ細っても姉は美しい。遺影に20年前の写真を使うという。2月末にはホスピタル病院に転院した。偶然にも私たちの母の故郷だった。そこは新潟でも有名な桜の名所でもある。「桜が見たいと言ったら欲だわね。」と寂しそうに笑う。さらに痩せ細る姉に励ますこともできない。「(私)ちゃん、もう来なくていいよ。ありがとうね」とやっと絞り出すように言葉が出る。私は頷き、姉に従った。生きている姉に会ったのはこれが最後だった。義兄から入院中の姉の様子を聞かせてもらい、家族に見守られ安らかな最期が迎えられることを祈るばかりだった。新潟の桜の開花は遅い。桜を見ることなく姉は逝った。瞬く 私は 感情が麻痺していた。葬式や何やら涙は出なかった。なのに、その年の夏仕事を辞めた。姉は常々私に働くよう諭してくれた。その姉に叱られることもなくなったからか、わがままのようにして退職した。姉を思い出し、偲ぶというのか、ようやく涙が出るようになった。書いている今も涙が止まらない。感動すると涙が溢れるし、優しい気持ちにもなれるようになってきた。姉が入院した時にまだコロナはなく、二週間に一回病棟に行って姉と話せた。姉の一周忌にはコロナで都内から新潟へ入ることさえ憚れ、以後墓参りも出来ていない。姉が来るなと言うまで、存分に話せたことに感謝している。商売で忙しい生家で、忙しい母の代わりに朝の顔を拭いてくれたり、ご飯を食べさせてくれた姉。いっぱい尽くしてくれてありがとう。きっと、空から大好きな義兄を見守っているのでしょうね。ありがとうね。

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