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カシアス

ガキ大将の絵 

2020年11月29日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

自分年表によると、1953年、昭和28年、
私は某財閥系大学の付属私立小学校に入学した。
普通ならそのまま大学まで行けるから
両親は将来に保険をかけたつもりだったのだろうが、
幼い身で毎日満員電車に乗り、
一時間近くかけて通うのは苦痛だった。
加えて同級生の大半が超教育家庭で、
家庭教師がいるか、親がその代わりをしていたらしく、
私の成績は相対的に最悪、
先生にも嫌われていた(と思う)。

何とかあの学校に通わないですむ方法はないものか、
と思っていたが、交通事故(軽症)などもあり、
晴れて(?)5年生から近くの公立小学校に転校した。

転校して最初に驚いたのは、
クラスで身長順に整列すると、
前方の子が驚くほど背が低い、
当時(昭和32年頃)の日本はまだまだ貧しかったらしい。
勿論普通の子は普通で、私立でやや前のほうだった私は、
やや後ろのほうになった程度だ。

クラスには勉強に全く無縁な子が2人いて、
テストの時も、ぶらぶらして何も書かない。
先生もそれが当たり前のように振舞っていた。
今考えると典型的な発達障害だが、
休み時間に彼らと話すと、極普通で、
何故九九が出来ないのか、足し算さえ分からないのか、
不思議だった。

ある時、先生が、生徒の絵を展覧会に出すから、
代表で絵を描く人をクラスから1人選ぶように、と言う。
クラスには絵ならこの2人という子がいて、
直ちに2人に絞られたが、両者とも自分は嫌だとか。

この2人はそれこそ絵に描いたような好対照だ。
1人は良家のお坊ちゃんで、私が遊びに行ったとき、
玄関の下駄箱の上に、彼の絵がかかっていた。
細かくは覚えていないが、深緑の葉が
バランスよく描かれ、なるほど上手いものだなと思った。
勿論しっかりと絵の先生についている。
背も高いし、勉強も出来て、お母さん自慢の優等生だ。

もう1人は屑屋の子だ。
リヤカーで屑を集めて何処かに売るらしい。
後のちり紙交換だが、当時は貧困の代表だった。
遠足に行く時、50円まで持って来ていいとされている
お菓子を買ってもらえず、
朝お父さんと喧嘩して買ってもらえなかったと、
その様子を面白おかしく、仲間に語っていた。
よく出来た作り話だが、誰もそうは言わない。

ところが、この子がたくましい。
頭は坊主狩り、背は中程度、筋肉質で喧嘩も強く、
成績も優等生ほどではないが、上位に入り、
男子生徒の全員が一目置いている。
言ってみれば、勉強の出来るガキ大将だ。

美術の時間に校庭で写生をした時、
後ろからその子の絵を見たことがある。
なんでもない、木造の小さな一件の家を書いているのだが、
細かいところはさておき、
家が飛び出してくるような勢いがある。
全体の情景を大きく捉えており、
今思えば、我理系頭では絶対に描けない絵だ。
家ではなく、風景や生き物を描いたらどうなるのか
知りたかったが、見たのはその一度だけだった。
絵の先生に習ったら、あの絵は描けないだろう。

彼は展覧会に出すのは嫌だといっていたが、
興味がないのか、単なる照れ隠しだったのかもしれない。
結局2人のどちらが代表になったのかは、覚えていない。

中学校は学区の関係から
優等生、ガキ大将とも隣の中学に行き、その後は音信不通。
中学卒業前に聞いた話では、
ガキ大将は経済的事情から高校には行けない。
当時は都会でも2,3割は進学せずに就職していたから
珍しい事ではないが、
噂では、徒党を組んで、同じ年頃の子供を脅して、
小銭をまきあげていたとのことだが、真偽は不明。

公立小学校の同窓会などあろうはずも無く、
その後、ガキ大将がどうなったかは不明。



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