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ドモドモ\(´▽`*)(*´▽`)/ドモドモ

(ノ_-;)ハア… 

2019年10月30日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


  これって (;´▽`A`` ロシア映画にしては (ノ_-;)ハア… 実態話しましょ T-34は確かに優れた戦車で 初出撃の1941年 ドイツ軍の戦車では 撃破が困難だったけど 理論上の話 実態は 戦車でおびきよせ 88ミリ砲で撃破を何度も繰り返し あの有名なミハエルヴィッドマンは T-34の弱点を見抜き 3号突撃砲 一両で12両撃破 確かに出撃当初はドイツ軍も一時期混乱したけど 戦車兵の腕の悪さ へぼ運転を見抜き 横から88ミリ砲でかなりの数を撃破して 何度も全滅をくらわしてるし 1941年の時点において 当時ソ連は 有能な戦車指揮官 爆撃の専門家を処刑してしまった そのためにまともな戦車運用ができず T-34は 理論上800メートルの遠距離射撃が可能だけど それをできる戦車兵が全くいない 100メートルでも当てれないありさまで この傾向は 実は1944年まで続いた 致命的なのは戦車運用ができず ただ突撃させるだけ 撃てないから 無理やり突っ込んで88ミリ砲を破壊した記録もある T-34の弱点が判明したドイツ軍は モスクワ侵攻まで カモにしまくった これが実態で 後に ドイツはテイーゲル パンテルを開発したけど テイーゲルの遠距離射撃の前には カモだった スターリングラード戦では バリケードの役割を果たし ドイツ軍の攻撃に持ちこたえたけど のウラヌス作戦では へぼなのは変わらないけど へぼな集中運用で スターリングラードの ドイツ軍を逆包囲したけど 運転のへぼさは変わらず ドイツ戦車をかなり取り逃がしたし 包囲しても すり抜けられるありさま その後の 第3次ハリコフ攻防戦では マンシュタインの罠にかかり 補給ができずT-34の大半が動けなくなり 全滅 一時的に ソ連軍は撤退 補充をせざるを得なかった クルスクの有名な戦車戦では ソ連500両対 ドイツ200両の一騎打ちがあったけど ソ連は まぬけというか 橋の一本道を整列して進軍 したところを 狙い撃ちされ 半数以上を撃破 大半はテイーゲル エレファントの遠距離射撃 ”まるで射撃訓練だった”と 当時の司令官 パウルハウザーが回想していた 1944年になり さすがにソ連も戦車運用ができるようになり T-34本来の性能をやっと 発揮できた バグラチオン作戦の時 おそらく ぶらが思うに スターリングラードで捕虜になり 洗脳された 裏切者の将軍どもが 教えたとみてる 特にパウルスはバルバロッサ作戦の初期草案を描いた人物だしね 砲兵のザイドリッツ将軍もその一人と その時のソ連のやり口はバルバロッサの模倣だったし 急進撃しすぎて ポーランドでドイツの罠にはまり 先遣隊が全滅したけど まだ作戦はヘボ だけど T-34の戦車兵は 実戦で学んだことは事実 1941年の時点では砲撃は愚か 運転もできなかったけど 44年の時点ではホイホイ動かせるようになったのは確かだけど ベルリン戦では 流石のソ連も生産が追い付かず戦車不足となり  砲弾と市街戦でドイツを降伏に追い込んだけど 言えることは ”兵は戦場で一人前になる 実戦は半年分の訓練に勝る” というけど ソ連兵はその典型ですな ただ最後まで 戦車を的確に運用できる司令官 爆撃を的確に統制できる司令官 砲撃を的確にできる司令官が不在だった 有能な司令官を処刑しなければ 戦局は 違ったものになっていたでしょう ドイツは一年も持たずに全滅したかも ソ連軍の ジューコフはこういった ”我々は弱い軍隊だ 強い統制(逃亡者は銃殺)が必要だった” イレメンコはこういった”我々の指揮能力はドイツの下士官以下だ 何度も意図を見抜かれた”って 戦後両者とも ドイツの強さ 屈強さは認めていた でも ドイツもソ連も傷を負ったし 元来勝者であろうと 敗者であろと 戦争が終われば 瓦礫の山 親を亡くし泣いてる子供 廃墟の中で必死に生きる家族 これが戦争というもの いつかはなくなってほしいものです  

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