気紛れに 言の葉揺らす 風になる

雷鳴の記憶 

2019年07月29日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

夢と現の白くぼんやりとした境を行きつ戻りつしていると、ずっと遠くの方で微かな音が聞こえる。しばらくして再び似たような音が聞こえた後、音が少しずつ大きくなり、雷鳴だと分かるようになって眠りから覚める。目は閉じていても意識ははっきりしていて、再び眠ろうとしても雷鳴が邪魔をし、間もなく諦めてベッドを抜け出す。ホテルの部屋に備え付けの小さな冷蔵庫からペットボトルを取り出し、透明なプラスチックのコップに水を注いで一気に飲むと、冷たい水が少し火照った身体の中を落ち、心地良い。ベッドに戻り、目を閉じて再び眠ろうとするが、意識が勝手に動き始め、昨日や一昨日のことが蘇り、やがて時間が加速度的に過去へ遡り、昔のことが次々と脳裏を過る。少し大きな雷鳴が大学生だったあの日で時間を止める。もはや安らかな睡眠は望めないと思い、再び起き上がり、時計を見ると、午前四時を少し回っている。カーテンの隙間を広げると、稲光が暗い部屋の中を照らし、しばらくして雷鳴が聞こえた。少し間があるから雷は遠いと思いつつ、ガラスのドアを開け、稲妻が照らすバルコニーへ出ると、湿り気を帯びた生温かい風が身体に当たる。その風に含まれる微かな香りは学生時代の思い出したくないあの日の記憶をはっきりと蘇らせる。その夜も遠くに雷鳴が聞こえ、全ての荷物を運び出して空になったエツコの部屋を稲妻が時々照らしていた。その部屋で私はエツコと一緒に毛布に包まり、眠りに落ちれば全てが終わってしまうと思うと眠れず、何も言わずにエツコと最後の時間を過ごしていた。エツコは泣き疲れ、稲光で時折照らし出される窓の外の木立を見るともなしに眺めていた。二つ年上のエツコは、四年勤めた病院を前日に辞め、夜が明けると郷里へ帰る。全てを捨ててエツコと一緒に暮らすことを幾度も考えたが、ブック・スマートなだけの二十歳の大学生が大学を中退してもいきなりストリート・スマートになるわけもなく、エツコと一緒に暮らすことなど到底無理だ、というのが私の結論だった。しかし、私は自分に大きな嘘をついた。相当な努力をして入った有名大学で、そう簡単には捨てられず、どうしようもない躊躇いがあった。エツコもそれをよく知っていたから最後まで何も言わなかった。それが心にチクチクとしたトゲを刺した。エツコを限りなく愛おしいと思う気持ちに偽りはなかったが、それがエツコを愛していることになるのかどうかは二十歳の私にははっきりとは分からなかった。エツコを放したくはなかったが、そのために捨てねばならないものにも強い執着があった。エツコと毛布にくるまっていた間、幾度となくエツコに、「郷里へは帰るな。一緒に暮らそう」と言おうとした。言葉は口の中で用意されていて、ただそれを音にすればいいだけだった。しかし、その勇気がなかった。夜が明けるまで、私は遂にそれを口から出すこととができなかった。夜が明け、エツコは始発に乗るために立ち上がり、衣服を整えてコートを着た。私がエツコのバッグを持ってアパートの外に出ると、湿り気を含んだ生温かい春の風がそよいでいた。その風が運ぶ微かな香りにエツコと過ごした日々が鮮やかに蘇り、エツコの身体に触れた感覚が身体中を巡った。そんな悦子との日々が終わろうとしていた。アパートの部屋のドアを閉めると、エツコは私の首に手を回し、目の奥を覗き込み、「お別れね」と言う。口の中に残っている言葉を絞り出す最後の機会だったが、私の口から出たのは、「そうだね。元気でね」。もう一つの言葉は飲み込んでしまった。エツコが「うん」と言うと唇を近づけてきた。それがエツコと幾度となく交わしたキスの最後になった。エツコは始発に乗ると窓側の席に座り、列車が動き出すと、私に向かって小さく手を振った。エツコの目には涙が浮かんでいた。私もエツコに手を振り返しながら、 「悦子、帰るな、一緒に暮らそう」と、既に飲み込んでしまったはずの言葉を吐き出した。それを聞くことができないエツコはただ手を振り続けていた。間もなくエツコの姿が列車とともに視界から消え、それと同時に、心の中でチクチクとしていたトゲの痛みが消えた。私は自分が情けない奴だと思うと同時に重荷から開放されて楽になった。バルコニーを照らす稲妻はあの日の光景を目の前に生々しく再現した。湿った生温かい風の香りはエツコと別れた後に消えた心のトゲのチクチクとした痛みを蘇らせる。あの若い日、この世の誰よりも愛おしいと思ったエツコを裏切ったことはいつまでも心の疼きとして残るだろう。私はその疼きを抱えてこれからも生きて いく。2019−07−28

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