詩(short poems)

詩性について(1) 

2018年10月21日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

ブログ記事「句には宛先がある」で私は詩性について少々触れたので、私の「詩性」の用法をもうすこし具体的に述べておきたいと思う。私は何気なしに詩性と言う言葉を使っているが、今回「詩性」を検索して公用語・共通語・共用語などに該当しない単語なのではないかと思われてきた。これはまだ市民権を得ていない単語かも知れない。詩性が言霊(ことだま)‥とかだと愉快なんですがね‥^!^

(簡単に言ってしまえば) 詩の性質を持つ文章には詩性が具わっていて当然ですね。(もっと云えば)文章が詩的であれば詩性が具わっている。それなら詩とは何なのかとなるだろう?(私的には)詩は価値あるもの。詩は美しい。詩は発展する。詩は善いもの。おおよそ、こんな感じ。こう述べてきて、詩性は感応する。物理的には共鳴し、心理的には感動する。だから詩性には個人差が見られるんだ。

個人差が見られるってことは真逆な反応をする人がいるってこと。うっとりする人、厭そうにする人、悲しそうにする人、笑う人、怒る人、眠そうになる人、無反応の人、、一つのモノやデキゴトに人それぞれに異なった反応をする。だから力が具わる詩と云えども人はオイソレと変わらない。ともあれ、今は幾つかの例文とすべく「575の句」を引いて検討を加えて参りたいと思う。


*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

さて、次のフレーズを読んだ後でそこに何を感じたか?そのことに価値はあるか?それは美しいか?そこから元気を得たか?それは善いものか?あるいは、詰らなかったか?そういった何かを人は感じ、句意や感想の形となって顕われる。句意や感想は人ごとに微妙に異なるし、全然違うこともある。

(なお、下記の句をクリックしていただけたら、私の詳しい解説記事へ跳びます)

☆柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺  正岡子規 
私はこのフレーズを諧謔・滑稽の部類と感じたが、あなたは名句だと感じますか?

☆くろがねの秋の風鈴鳴りにけり  飯田蛇笏 
私はこのフレーズに詩性を感じず、狂句と思ったが、あなたには俳句だろうか?

☆赤い椿白い椿と落ちにけり  河東碧梧桐 
このフレーズも私には詩性が感じられず、だが世間的には名句で通っていますよね?


次の多田道太郎氏の2句は私には川柳に思えたが、増俳に載るから俳句なのだろう。勿論、詩性を感じるなら詩だろうし、詩性を感じなければ詩ではあるまい。

☆くしゃみしてではさようなら猫じゃらし  多田道太郎 

☆袂より椿とりだす闇屋かな     多田道太郎


こう見てきて、正岡子規の俳句には川柳・狂句も含むって理解すべきですね。川柳は詩性と仲が良いと言えそうです。

私が今回気づいた大事なこと。それは詩性の存否でした。鶏の卵に鶏は入っていないけど、時が来て雛が生れて鶏に成長する。それと同じように、詩性という完成品が在るのでなく、卵が自然の内で鶏へと成長するように、私たち人間の中で詩性が育っていくのかなあ‥って、そんなことを思ったのです。

例えば、多田道太郎氏の川柳に詩性を見出すも見出さないも、詠み手でなくて読み手次第。それが分れば狂歌からも詩性は生れる道理ですが、この作業には苦労させられるに違いない。極悪人のなかに善性を育てるのに似て、難しいけどやり遂げたときの達成感は大きい。そんな感じかな。



拍手する


コメントをするにはログインが必要です

PR





掲載されている画像

上部へ