詩(short poems)

赤毛のアン-11  

2018年10月09日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

nhk[100分de名著から「赤毛のアン」の2回目講義。

アンが暮すようになったのは「アヴォンリー」っていう小さな村。その村の学校へ通うようになったアン。村人たちとか学校でお友だちになる人たちとの葛藤が今回紹介された。意外にもアンは教会で祈ったことがないのです。教会系の孤児院なのに、ちがったの?孤児のアンにも干渉しない教会だった?教会の神父さんたちに説得力が具わってなかったの?

これまでの経過と今回の講義からアンの性格は合理的だと分かる。合理的な人ば「真」を大事にする「神・仏・哲人」に好かれる。感性だけで暮している人からは「気心が知れないイヤな奴」と思われるかも知れない。その代わり、「真」を大事にする神・仏・哲学はアンを守ろうとする。幼いときからの体験をとおしてアンはそのことを感じ取ってきたようだ。

作者モンゴメリは継母と同居したときに子守や家事を命じられて、好きな学問を続けられなかった。学問を続けるために彼女は嫌いな祖父母の所へ戻っている。継母の冷遇に負けてなるものかと思ったかも知れない。その「負けないぞ」の気持ちはいいが、どう負けないの?グレてやるって考える日本の文化がある。だからアンは不良少女になったのか?

アンは、モンゴメリ譲りの合理性を重んじる少女だったよ。アンが破滅して悲しむ人は誰?アンには家族がいなかった。日本のケースだと子の幸せを願う家族がいて、その家族を悲しませる目的から「自分が駄目になればいい」って思う。それはオカシイだろって言っても仕方ない。その子はそうすることが「得」だって身体で覚えてきたんだ。損得なんだよ。

損得を身体で覚えた子に日本の子も含まれる。また明日の損得を身体で覚えた子・アンがいる。理屈・理論を理解できるまでに育っていない年代の子は身体で損得を覚えるしかない。言いかたを変えれば、幼い子は環境に染まるんだ。私が理屈に合わないことをしていたら私の子は理屈に合わない生きかたを身につける。そんな子を神も仏も守れない‥だろ?

感情にまかせて「アイツは嫌いだから意地悪してしまえ」ってなるようなもんだよね。そんな子を神も仏も哲学者も、どこの国の独裁者でさえも守らない。結局、家族もろとも破滅していく。その人たちは「俺に構うな、放っとけ」と言うからね。友人が多いって自慢するのはいいが、誰一人も忠告しない、うわべだけの友人関係だから結局放っとく。


さて、希望の明日に向かうためにモンゴメリは今日の我が儘を封じたと考えている。彼女の分身たるアンの我が儘もぜったいに許さないだろう?アンは理性(合理性)を身につけている。どうやって身につけたのか‥私は見ていないから知らない。だが合理的なアンの考え方はあちこちで見られる。それを伊集院光氏は頓珍漢だと感じたのかも知れないな。

アンと自分が同じであれば変とか頓珍漢だとか思わない。私は、アンは普通だと思ってきた。だからアンが頓珍漢なら私も頓珍漢だと世間的には評価されていることになる。そんなことは私にはどうでもいい。その世間の人たちを私は信じる。信じて受入れる。そして私が信頼するのは合理性・理性・真である「神・仏・哲学」だ。信じると信頼は私には違う。

この見方を根底に置いてアンの言動を観るなら「アンは普通だ」と分かる。普通の意味は「ありきたり」「マジョリティ」ではないからね。「普く通じる」のが私の普通だ。普く、つまり神にも仏にも哲学にも通じる普通。完璧という意味とも違う普通。分かりにくいだろうか。完璧な人間はいないさ。完璧でありたいと純真に努力する人を神仏は愛する。

要領をかまさないだろ?アンはストレートなんだよ。要領をかまさないアンは苛めを受けやすい。だけどそれでもなお要領をかまさないアンなんだ。この面を観て伊集院氏は「健気だなあ」と言ったのだろうけど、その態度こそが要領をかましているかも知れない。テレビを見て誰も伊集院氏を非難しないのは生きるのが巧みなんだ。違う?私は非難しないよ。

そりゃあ、アンを癇癪持ちのデキの悪い子と言った先生を非難したら誰でも立たされて説教される破目になりそうだ。間違ったことをしていないあなたがだぜ。アンを庇ったら酷い目に遭わされる(集団・社会・学校)。苛めてる積りはないだろうけど、先生はアンを苛めている。これが日本中に蔓延る苛めの根っ子だろうな。苛めに無関係なら幸いです。

結局は、回りまわって自分に戻ってくる「因果は回る」なんだよね。
今回はココまでにしておきます。



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