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身内の死。 

2018年02月15日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

今年の冬は例年に比べて断トツに寒いですね。きっと、この寒さが身体に堪えるお年寄りは多いのではないかと寒い時期になると思うのですが、今年は特にそうなのではないのかと考えていました。我が家の義母は昨年の初冬の頃に93歳になりましたが、今の所、定期的に通院してはいるけれどその甲斐があって年齢を考えると驚く程元気な方で、毎日の日々を何事もなく過ごしています。ですが、つい昨日の事。12年前に私の実母の旦那となった備前焼陶芸作家の養父M先生が先日亡くなったと報せを受けたのです。思い返せば一昨年の冬頃、突然に発作を起こして救急車で県内の病院に運ばれてからの様々な検査の結果、肺とそして心臓がどうにもならない状態まで病魔に侵されていた事が判明して。当時は即入院で緊急手術となったのだけれど、特に心臓はもう手が付けられる状態ではない程に何もかもがボロボロの状態だった事、そして彼もまた義母ほどではないにしろ高齢の身である事もあって、気休めにペースメーカーを埋め込むのみで何の処置も施す事なく閉胸されるに留まった。その後、M先生はその病院で暫く入院生活を送る事に。もうほんの少しの何気ない動作ですら彼の心臓に負担が掛かる事により発作を誘発し命が危険に晒される事になると判断された為である。彼の入院中、私の母は基本、病院に泊まり込んで介護をしていた。自宅の隣の市に住む叔父夫婦の協力もあって、たまに自宅と病院を行き来して必要な荷物を取りに行ったりしつつ、過ごしていた。私は発作の報せを受けた際、主人の厚意でその病院に娘と3人で駆け付ける事が出来た。術後のM先生は、まるで以前と変わらない様な元気さで病室に居て、私達を迎えてくれたのである。でも、その姿の裏では一度発作が起これば命が危うくなる脆さを抱えている。些細な負担で誘発される大きな爆弾が彼の中にあった。歩く事は愚か、排便時のいきみですら命取りになるのだと聞いた。しかし元々自由奔放を好むM先生は、窮屈な入院生活が嫌だった様で、その馴染みのない病室で余生を送る事を良しとはせず、退院の希望ばかりを母に訴えていた。母も医師も、彼に関わるみんなが祈る様に大人しくしていて欲しいと、少しでも長く生きて欲しいと願っているにも関わらず、相変わらず不自由さを嫌って我儘を言いまくる様は本当にM先生らしいと、ため息混じりに私は思っていた。以前から彼のその奔放さはかなりの頻度で爆発し、一緒に居る母などは振り回されるのだが、病床に伏しても相変わらずなのは性格なのだろう。病室で会ったM先生は、その身体以外は元気そのものの様に見えたが、入院生活の中で、困った事に痴呆傾向が色濃く出始めていた。元々の華やかな気質故ににこやかに対応してくれつつも、私や旦那や、娘の事をどうやら完全に忘れている様だった。妻である母の事さえ、時に忘れている風だったM先生。悲しくなった。結局、強い本人の希望と経過が思ったよりも良好であったが為に病院は退院をするになり、M先生は自宅でその後の余生を過ごす事になった。それから他界するまでの1年間、自宅内で酸素を送る機械を買ってチューブを鼻に挿しながらの生活を送っていた。介護保険の申請をし、訪問看護士さんもお願いする事になった様だ。私も娘を連れてM先生が母と住む実家に行ったり、主人と娘の二人が長期休暇の折に旅行を兼ねて二人の顔を見に行ったりした事もある。発作さえ起こらなければ、元気そうで何ら変わりはない様に見えるM先生。爆弾を抱えている事も忘れそうになる事もしばしびだったのだが…。昨年の冬休みにもM先生の顔を見に里帰りをしようかという話が出て、いつもの様に母に打診した私だったが、徐々に先生の介護も大変になってきている事、異常な程の寂しがりやで、夜の眠りが浅く、相手をして欲しくてほぼ夜通し母に話しかける様な人だったので、母の寝不足もピークに達している事。以前からどっぷりと母に依存し、甘えきっている先生だったので、ヘルパーさんに介護を任せる事が難しい事、仮に娘が家へ遊びに訪れた場合、娘にまで割く余力が今の母の中には到底なく、過去に母や母の親戚が生き詰まっていた時に家族ぐるみで助けて貰った返し切れない程の恩と、共に二人で結婚生活を送った期間の愛情があるので、母の持てる全力で先生を看取りたいとの事で、その意向を汲んで私達の冬の里帰りはしない事となった。M先生への恩は、私にも私の妹にもあるのだ。私は独身時代の数年間、母の住む実家へ住まわせて貰った事がある。その時は派手に喧嘩もした。先生は、時にうんざりする程にクソウザイ男でもあった( ̄▽ ̄)笑私も大人しい性格ではないので、ネチネチと嫌な事を言われると腹が立ったし、何だ、この男と思う程にチンケな面が多々あり、憎たらしく思う事もしばしばだったのである(笑)私だけでなく、母とも実によく喧嘩をしていた。でも、どんなに喧嘩をしても、その後でじっくりと話し合えば和解が出来、元の鞘におさまるパターン。私とも、そうだったな。母が間に立ってくれたりもした事があるけど、基本、迷惑奔放(笑)だけど、変な所では素直でカワイイ面もある養父だった。妹も、2年前にお見合い結婚をする事になった折の結納や結婚式の席に父として居てくれてありがたかったし嬉しかったと思うのです。私の実父は借金抱えて戸籍上の偽装離婚した後に、最後は自宅にさえ戻らなくなった末の行方不明ですからネ( ̄▽ ̄)実の娘が二人とも結婚している事や孫がいる事を知らせたいと思っても、出来ない。連絡くらい付く様にしてくれれば良かったのにって思うけど、悪い父親ではなかった記憶があるものの、結局は気まずさ故に向き合えずに私達家族から逃げてしまったんだから、人間的に弱かったんだろうなあと感じます。私達はその方面のメンタルは逞しい様なので(笑)、別段恨んだりはしていないけど、もしその辺を気にして生きていたら彼自身、不幸かもね。現状を知る事は出来ないから、想像するしか術がないんだけれども。そんな感じだったので、家族で路頭に迷っていた時代にM先生は颯爽と母の前に現れてくれて、マルッと母や私達を助けてくれたんだから、どんなに感謝をしてもし過ぎる事は無いんだ…と、ごく自然に思っていました。…だからね。なるべく、出来るなら、願わくば、少しでも長く生きて欲しかった。少しでも。…そして、昨年からの寒い寒い冬。冬に突然体調を壊し呆気なく他界する病人の話は巷でもよくありますよね。だから、母に電話でご機嫌伺いはしていたものの、とうとう先日、来るべき時が来てしまった。厳密には亡くなった後、お通夜と告別式を済ませ、M先生がお骨の姿になった後で母から連絡があり。しかも、メールでした。。。報せのあった昨日はバレンタインデー。先日、娘と共に西新宿へ訪れて期間限定のキャンドル制作体験をし、娘はボンボンショコラを作ってパパにプレゼントするつもりで前日にラッピングも済ませ、万全に用意をしていた。( ̄▽ ̄)私がスタジオCのトレで六本木へ訪れた際にミッドタウンに寄り道して、ジャンポールエヴァンで買った小さい(笑)バレンタインチョコも添えて。。。加えて娘の足もみの日だったので、学校帰りの娘と待ち合わせてそのまま国立のKMRさんへ。しかしその道中で、娘が学校の友達から手作りの友チョコを貰った事が判明その子へのお返しと更に約束したお友達の分も…。と、今更ながらに用意するチョコが増えるとゆ〜緊急事態が発生!急遽、国立ノノワのお店で個包装されたチョコを買ってそれらを詰め合わせてセットを作る事に。帰ったら公文と学校の宿題もせねばならず、お風呂にも入ってパパの帰りを待つミッションがあり、バタバタになりましたその日、午前中は義母の内科通院の付き添いがあって、早目に選択と風呂掃除も終えており、私の体力も低下中…( ̄▽ ̄)そんな中で満足に携帯を見る暇もなく、しかも今、やたらとiPhoneの電源が落ちる不具合があって、ほとんどのアプリを非通知に設定していたので母から送って貰っていた訃報メールにすぐ気付く事が出来なかったのです。。。気付いたのは、娘が寝てからの事。私もそろそろ寝ようかと、ご飯を食べながら晩酌をする主人にお休みの声を掛けて寝室のベッドに横たわって携帯をやっと見た時でした。ビックリして寝室から主人に取り敢えずの、報告。主人が側に降りてきてと言うので、リビングに戻り。それから主人と少し話をして、その後すぐ母に電話をしました。母の元には叔母が泊まりに来てくれていて、M先生が亡くなった直後から何かと母の力になってくれた様です。叔母もまた、M先生にお世話になった母の親戚なのです。M先生は我が一族を軒並み救ってくれたヒーロー的な人でした。ウザイ時はマジ、半端なくウザかったけど( ̄▽ ̄)頼りになる時は、とてつもなく頼りになり、お話し上手で楽しくてお茶目で、遊び心のある子供みたいな人でした。どうか、これからは安らかに眠って欲しいと思います。。。…母や叔母とも結構な長電話をし、それから、昨日は眠りにつきました。しかし、報せを受けて意外と涙が出なかったのは、間近で死を見ておらず、告別式などにも参加しなかったからなのか。その家で飼われていた元野良のみーこが帰らぬ猫となった時はそれこそM先生も交えてみんなで目が晴れる程、泣いたのに。でも。今朝いつもの様に起きて、いつもの様にリビングに降りて。既に主人が娘を起こしてくれていて、専用の食卓を暖炉の前において軽く食事を始めている側に立った時。不意にグッと涙が溢れてきて、それには自分でも驚きました。娘に、M先生が亡くなったんだよと告げようと思ったのに、涙が溢れてしまって喉が詰まって中々声が出ない。。。無言で後ろから娘の小さな背中を抱きしめて波がおさまるのを待ちました。まだ、何も知らない娘は、単に私が娘に甘えて抱き着いてきた様にしか受け止めていない様子。朝から何なんですけど、ワーイ!って感じで私を抱き返してくれて、その無垢な反応にまた涙。暫くギュッと抱き締めて、娘と抱き合って、体温を分かち合って、それから、小さく告げる事が出来ました。M先生が、亡くなったんだよって。娘が初めて触れる人の死が、M先生でした。多分、亡くなる事の意味はまだ厳密には分かっている筈も無い。私も、父方の祖父が小さい頃に亡くなった時に居合わせた記憶がありますが、その時、人の死の意味を実感するには至っていなかったですから。でも、悲しい感情は不思議とあって、私の場合は祖父の亡骸の側で激しく泣いたのです。ニーナは、亡骸に会う事は出来ませんでしたが、先生を想って、泣きました。悲しいね。もう、会えない。憎たらしい言葉を聞く事も、憎たらしく思う事も、話し合って共感してお互い涙しながら握手する事も、もう出来ないんだろうな。寂しいです。少し暖かくなって落ち着いたら、また母の住む実家へ来てねって母からの言葉。でもニーナは、今すぐにでも、おばあちゃんに会いたいってさ。取り敢えず、今晩また電話をしようと思ってます。今度は娘と共に。もう、義理孫にさえ嫉妬しちゃって電話を早く切らんか!と騒ぐウザイ程に寂しがりやのM先生がこの世には居ないもんね。。。きっと母とは、ゆっくり話せると思う。でも、それが今は寂しいね。母、また落ち着いたらウチにも遊びに来てね。

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