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笑うわんこ

別子銅山 

2017年09月28日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

高知に着いた日の夕食は母と主人と私の姉妹3人とで近くのレストランで頂きました。
以前は好き嫌いを言っていた母はディサービスにお世話になるようになって
昼食で出される食事で幅が広がり色々食べられるようになりました。


あくる日は雨でしたが、お出掛けが大好きな母を誘って愛媛の別子銅山に行きます。
高知道から松山道新居浜Iで山に向かいます。
大正5年から昭和5年までの間、別子鉱山の採鉱本部が置かれ、
社宅・小学校・劇場・接待館が建てられるなど、
昭和43年に休止するまで町として大変な賑わいをみせていました。(HPより)


標高750mの東平は東洋のマチュピチュと言われています。

東平(とうなる)歴史資料館で雨を避けてビデオでお勉強。

索道停車場跡
雲を抜けても、また霧が発生します。
次に山を下り、旧広瀬家住宅へ
旧広瀬家住宅は,住友家(本店)の初代総理人を務めた広瀬宰平の建設した住宅である。
明治20年代に移築・新築併せて全体が整備された。
広瀬宰平は近江野洲で生まれ、9歳で叔父に従い別子銅山に上り、2年後の就業年齢に達し

住友家に奉公した。
28歳の時、住友家第10代当主・友視の推挙によって広瀬義右衛門の養子となり、
慶応元年38歳で別子銅山支配人になった。広い台所と思われるところには、お茶を製造する過程の機械が設置されていました。
庭には池や茅葺屋根のお茶室、市内の高台に位置した住宅からは眺望を意識した
部屋を複数持つなど、住宅機能のみならず迎賓館としての役割を備えています。


母は足が弱くなっているので雨の中で車で待った貰うこともありましたが
車窓から見える景色で隣県に移動して楽しんでいるようでした。
夕食はお寿司にして、好きなようで食が進んで何よりでした。

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