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ZRX1200S城

伊勢坪が城 

2011年03月29日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

平面図と説明看板
 





城跡の周りに道路が通っているので一分登れば頂上まで行けます。

 
上の段東端より

 
 
 
上の段から東方の展望
 
上の段と中の段の境

 
西方の展望。
高松山城が見えます。
下の段の構造は植生でよく分かりません。

 

東方より見上げる。
 
 
 
 

 
 
  北方からの全景   


 
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熊谷氏 土居屋敷跡                                               高松城に本拠を進めた熊谷氏が、天正19年(1591年)毛利氏に従って広島に移るまで、平生使用していた屋敷・政庁跡です。 今は石垣が残るのみです。
 
石垣の前はアパートがあり、屋敷あとは駐車場になっています。

 
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菩提所・観音寺
 
これはすごい石垣です。
吉川元春館と同等の巨石を配した石垣で高さ約3m、長さは吉川元春館より30m長く110mあります。
 
当時の観音寺は非常に大きな寺院で、月山富田城の戦いの際には、大内義隆が、
長期にわたって逗留ししました。
 
その後、熊谷氏が毛利氏の元で勢力を拡大し観音寺も大いに栄えましたが、
天正19年頃に広島城が完成すると熊谷氏も広島城下に移住し
関が原で毛利氏が西軍に味方して敗れると、熊谷氏も毛利氏に従って萩へと移住しました。
 
そのため観音寺も徐々に寂れていき、廃寺となりました。
江戸時代にはいってからも当主は家臣を墓参りさせるなどしており、寺は廃れても墓の管理を継続的に行っていました。
 
 
 


 
入り口

 
ぽつーんとお堂があります。
建物はこれだけです。

 
石垣上もなにもありません

 
井戸
永正14年(1517)の有田中井手の戦いで当主の熊谷元直は討死しその元直の遺体を、
家臣が持ち帰らなかったことに憤慨した元直の妻は、女一人で有田まで出掛け、
夫の元直の遺体を探しました。遺体は見付けたものの、女手で持ち帰るにはあまりにも重く
泣く泣く元直の右腕を切断して持ち帰りました。その腕を洗ったとされる井戸です。

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