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伊勢が坪城跡〜観音寺 

2011年03月28日 外部ブログ記事
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伊勢が坪(いせがつぼ)城


13世紀前半に武蔵国熊谷郷の熊谷直国が承久の変で討ち死にしましたが、
その功によって子の直時に安芸国三入荘の地頭職が与えられました。

源平合戦で名をあげた熊谷直実 (くまがいなおざね)の子孫です。

伊勢が坪城を築いた熊谷氏は勢力を拡大し戦国初期に高松山に拠点を移しました。
以降も隠居所として使われていたようです。

比高30Mの土居形式の城です。

平面図


説明看板


城跡を周るように道路があり徒歩1分で頂上へいけます。


東方より上の段

上の段から東方を望む


上の段と中の段の境


中の段最西端からの展望
左手に見える山が高松山
下の段と空堀はよくわかりません。


東方より見上げる

北方より全景
こんな古い城跡がよく残っているのが不思議です。

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熊谷氏土居屋敷跡

室町時代に高松山に本拠を築き、麓に屋敷を構えました。
天正19年(1591)毛利氏に従って広島へ移るまで使用していました。
屋敷があった所は駐車場になっていて石垣しかありません。

この前にはアパートがあり、撮りようがありませんでした。



右の山が高松城跡



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観音寺

根之谷川を挟んで向かい合う位置に、一族の菩提所・正法山観音寺があります。


熊谷氏第5代の当主熊谷直明が、その菩提寺として正法山観音寺として創立しました。

当時の観音寺は非常に大きな寺院で、月山富田城の戦いの際には、大内氏当主・大内義隆が
長期にわたって逗留したとされます。

その後、熊谷氏が毛利氏の家臣として勢力を拡大すると、観音寺も大いに栄えましたが
広島城が完成と共に熊谷氏も広島城下に移住し、関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍に味方して敗れると熊谷氏も毛利氏に従って長門国萩へと移り住みました。そのため観音寺も徐々に寂れていき廃寺となりました。

江戸時代も長州藩士熊谷氏の当主は家臣を墓参りさせるなどしており
寺は廃れても墓の管理を継続的に行っていました。

これはすごい石垣です。
吉川元春館と同等の巨石を使った石垣で高さ約3Mで100Mを越す長さです。



入り口
左は民家です。


境内南側には熊谷氏の墓所があり50基あまりの古い五輪塔や宝筺印塔があるそうですが
ちょっと行く気もしませんでした。

お堂
ぽつーんとこれしか建物はありません。


石垣上はがらーん


井戸
有田中井手の戦いで、当主の熊谷元直は討死、その元直の遺体を
家臣が持ち帰らなかったことに憤慨した元直の妻は、女一人で有田まで出掛け、
夫の元直の遺体を探した。
遺体は見付けたものの、女手で持ち帰るにはあまりにも重く
泣く泣く元直の右腕を切断して持ち帰った。
その腕を洗ったとされる井戸です。

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