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才蔵寺〜可児才蔵を祀る寺〜 

2011年03月26日 外部ブログ記事
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才蔵寺

可児才蔵。
美濃出身で初め斎藤龍興に仕え、続いて柴田勝家、明智光秀、前田利家、織田信孝、豊臣秀次、
佐々成政らに仕えました。
最後に福島正則に仕え広島転封に伴い広島に移りました。
石高は当初750石で関が原の後500石の加増がありました。

猿楽町に屋敷があったと伝えられていますが、
猿楽町は現在の原爆ドーム付近にあったらしく当時の様子はわからず
町名も無くなっています。

関が原合戦の折、東軍随一の17の兜首を上げたことで有名です。
その際、獲った首の耳から鼻へ笹を通し目印としました。
家康が感銘し笹の才蔵の異称を送りました。

入り口の石碑。


看板


階段。


階段を上がった所からの境内。狭いですが石碑が一杯あります。


可児才蔵の像


広島城方面を向いているようですがビルが多く城は見えません。


像の台座

可児才蔵 藤原吉長(1552〜1613)
才蔵像は関が原合戦屏風(彦根城美術館蔵)その他の史料を参考として再現した。
青年期は戦国武将として活躍、晩年は仏門に入りこの地に開山。
庶民の諸救済に専念、その徳行は後世に語り伝えられ、
現代では学業をたすけるミソ地蔵として親しまれている。
ここに才蔵尊像を建立して英姿を偲び、併せその遺徳を仰ぐ
二〇〇四年十一月二十四日 才蔵寺住職 笠継智光 合掌



お堂


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可児才蔵のみそ合戦という話もあります。「二葉の里 歴史の散歩道」 資料より
  

 今からおよそ380年前のこと、安芸の国の城主福島正則の家来に可児才蔵という槍の名人がいた。

ふる年の夏、洪水のため堤が切れ、川水は城の濠にあふれて城の石垣をだいぶこわした。
ほっておけないので、正則はすぐさま石垣の修理にかかったところ、正則は修理につき幕府の許しを得ていなかったので幕府にとがめられ、安芸の国から追われることになった。

ところが、幕府の処置を恨みに思った可児才蔵ほか六十人のさむらいは、矢賀の小さな城にたてこもったまま動こうとしなかった。

それを知った新しい城主浅野長晟は家来に命じて矢賀の城を攻めさせた。
才蔵は浅野の兵が城の石垣を登りはじめると、石垣の上からぐらぐら煮えたぎったみそ汁をぶっかけた。みそ汁で兵たちをやけどさせられた新しい城主は、こんどは才蔵たちを兵糧攻めにしようと、
幾日でも城をとりまいたままでいた。

だんだんと貯えを失ってくると、才蔵はひとつの思案を立てた。
城山のお地蔵に笹の葉を供え、それにみそと米をのせておけば、どんな願いごともかなえられるといううわさを近郷近在に流すことだった。

城の者はかわるがわる忍び出て、そのうわさをふりまいて歩いたので、うわさはうわさを呼び、
城山のお地蔵にはつぎつぎとみそや米が集まってきた。
こうして才蔵たちは長いあいだ城を支えたのち、どこへともなく落ちのびて行った。
地元の人たちは、やがて才蔵を真言寺に祀ってその寺を「才蔵寺」と名づけ、お地蔵はその寺の境内に移して「みそ地蔵」才蔵は「笹才蔵」と呼ぶようになった。みそ地蔵には、今は受験生か多数参拝してみそ玉をお地蔵の肩に供えている。「ミソを付ける」肩代わりをしてもらったり、地蔵の脳みそを借りたりするためである。
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福島正則の改易は元和5年(1619)で才蔵は慶長18年(1613)没なので全くの作り話なのですが
浅野氏相手に才蔵が活躍するのは痛快です。 

中は才蔵の墓とミソ地蔵。

頭にミソを乗せてお願いすると合格できるといういわれがあります。

はじめアレッ浅野の紋と思いましたが
才蔵の紋が浅野家の鷹の羽紋に似ています。




背面は地蔵と笹


本堂 おさすり地蔵


いい像です。

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